三浦日記

音楽ライターの日記のやうなもの

"死"に対する自覚の果てに見出した"生"―エレカシ全作レビューXV『扉』

派手さはないが、傑作——。

 

『俺の道』(2003)から『風』(2004)までのエレファントカシマシはある種、商業主義から完全に逸脱している。この時期はやはり、セルフ・プロデュースであるという点が大きいように思えるが、世間に向けて、分かりやすくパッケージングされたものではなく、時に難解で独りよがり。他方でそれは、作り手である宮本浩次の思いがフィルターが通されることなく、そのまま表されているともいえる。2004年リリースの『扉』もまた、その真っただ中の時期のものであり、これといって突出したキラー・チューンはない。かつて、ヒット曲を出したバンドとは似ても似つかないその佇まいは、時代を遡ったデビュー当時を彷彿とさせる。

 

しかしながら、その当時と大きく違うのは宮本の視点は確実に年を重ね、若さは枯れてしまったということだ。代わりに色濃く感じられるのは、"死の匂い"。ただ、それは決してネガティブなものではない。日常でのある出来事が引き金のようになって感じられるような"死"だ。そして、その自覚は、同時に今を生きるということ、つまりは"生"を見つめることへとつながっていく——。例えば、森鴎外の生涯が歌われた「歴史」は最終盤になって、〈男の生涯にとって、死に様こそが生き様だ。〉と結論される。そして、 

歴史の末裔たるぼくら。残された時間の中でぼくら死に場所を見つけるんだ

と、森鴎外という明治の文豪の生涯を追いながら、現代を生きる存在である自分と鴎外を重ねたことで、"死"というものを見つめられるのだった。「生きている証」では、自己を取り巻く様々なものを重ね、"生きている証"を見出す。両親、勝利、女、自由、喜び——。そして、突然場面が変わったかのように友に対して、「死ぬまでにどこまで たどりつけるだろう」と、ポツリと吐き捨てられる。

 

「地元の朝」では日常の営みでふと思いつくような考えが、効果的に描かれる。実家に帰る場面、男は家の前に立って、自問自答する。助けを乞うたものの結局、人助けする羽目になり、人を助けたつもりが裏切られるのが人間の性——。家に入り、母と上っ調子で話しながらも、頭の中でまた自問自答。俺は、立派な大人になりたい——。そして、実家を後にしイメージのない頭でも自問自答を重ねる。両親から受けた愛を、俺は一体どうやって返せばいいのだろうか——。実家に帰省し、そこで反芻された自問自答は帰路で一つの集合体のようになり、一つの結論を導き出す。

体の全て使い尽くして死にたい
俺は死にたい 俺は死にたい

 この思いは、最終楽曲である「パワー・イン・ザ・ワールド」にもつながる。

 全部使い尽くせ
おのれの全部使い果たせ
やっぱり飽き足らない 死ぬまで俺走るんだ

 宮本は『DEAD OR ALIVE』(2002)において、確実に近づいてくる死というものに対して自覚的になっていた。しかしながら、その時点では抗うことなく受け入れるしかないといった具合に、やや自暴自棄になりながら、もがき苦しんでいるのが作品から伝わってきていた。"生と死の実感"はあれど、あくまで"怠惰な生活との格闘"にとどまっていたのだ。それが『扉』では"死"への自覚を、より"生"を充足させるものとして昇華されている。 37歳の宮本が出した、一つの結論がそこにはあるのだった。

 

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