ミュージシャンH (30代, 男性)
その人は10畳ほどの会議スペースのような場所の中にいた。ピンク色の髪は前髪がツンと立てられていて、後ろ髪はヘアピンで留められている。1998年頃、その人が亡くなる直前の頃の姿であった。スペースにはポップアップブースのようなものが開催されているらしく、ミュージシャンHにゆかりのあるモノやグッズが並べられている。イエローハートと呼ばれる黄色いボディーにハートが行儀よく並んだギターのレプリカと、迷彩柄のツナギ、それから黒と黄色のナイロンジャケット――。
「ようこそ、楽しんでってよ」
とHは言う。彼は既に亡くなっているはずなのに、どうしてここにいるのかは分からない。あるいは――自分が1998年5月にタイムスリップしたというのか。窓の外を眺めてみると、街を歩く女性はショートヘアーで眉毛は細い。信号待ちしている車は今のものよりもどこか角ばっている印象を受ける。間違いない、タイムスリップしている。
「キミはどこから来たの?」
「自分は2024年から来たんです」
「へ―、未来ね」
その人は、驚くこともなく、さぞ当たり前のような反応があった。
「この時期に来たということは、どうしてか分かりますか?」
「え?なんで?」
「えーとまあ……。色々あるんですよ」
思わず、間もなくあなたは亡くなってしまうんだと言いそうになった。「CAUTION:警告」という表示が、強烈なアラーム音とともに脳内で何度も明滅してくる。
――そのショックで思い出した。そういえば「時間旅行ツアー」なるものに応募していたのだった。
「タイムスリップしてみませんか?貴方の行きたい時間に行くことができます。5分だけの魔法の旅――」
そのように書かれた怪しげな看板の建物に入ると、暗闇にポツンと木製のテーブルと椅子が置かれている。そこだけスポットライトが当てられ、テーブルの上には今では珍しい羊皮紙が置かれていた。そこには
「行きたい日時、会いたい人」
とだけ書かれている。ここに書けばいいのだろうか。説明はどこにもない。置いてあった羽ペンで、1998年5月1日とその人の名前を書く。すると、紙は暗闇の奥にスーッと飛んでいき、代わりに上から新たな紙がひらひらとおりてきた。上を見てもまったく何も見えない。そこには小さな字で規約が書かれていたが、不思議なことに一通り眺めていると、スルスル頭の中に入ってきた。その中に、
「目的地に到着直後は、身体にかかる膨大な負担により、直近の記憶喪失に見舞われることがあります。これは一時的なものですので心配ありません」
という文があった。なるほど、タイムスリップしたこと自体を忘れていたのはそれが原因であったようである。脳裏に浮かんでくる仰々しい警告――。これも注意事項に書いてあった。
『その人の運命を変える可能性のある発言や行動があった場合は「CAUTION:警告」という表示が、旅行者の脳内に表示されます。表示形式は、その人のこれまでの体験によって決定されます』
突然冷や汗をかき始めた自分を見て彼は、
「どうした?なんかあったの?」
と訊いてきたので、肩で息をしながら、無言で首を振る。
「そっか、2024年か。そこまで生きてんのかなーオレ――」
ミュージシャンC (50代, 男性)
場末のバーのカウンター席で、Cは煙草を燻らせながらウイスキーを飲んでいた。その人は魔女のようなハットを目深に被り、サングラスをかけている。横顔は三日月のように尖っていて、その下の方には真っ白な無精髭が生えている。店内にはCと年老いたバーテンダーと自分しかいない。あるいは他に誰かいたのかもしれないが、その存在を限りなく掻き消すように暗闇に塗れてしまっていた。Cはおもむろに煙草を灰皿に置き、立てかけてあったアコースティックギターをかき鳴らしながら歌い始めた。激しくて、けれども優しく美しい、宇宙みたいな曲。曲が終わった瞬間、ハッと思い出した。今度は2023年2月にタイムスリップしているのだ、と。またあの店に行って、Hの時と同じように紙に書いて注意事項を眺めていたら、いつの間にかここにいた――。一体どうやって、過去に戻っているのだろう。肉体は既に骨になって、粉々になってしまっているはずである――。まだ動悸は収まっておらず、インフルエンザに罹ったときみたいな節々の痛みを感じるが、最初にタイムスリップした時よりはだいぶマシだった。
2021年、自分がCを見かけたときのことを話してみようと思った。それが最初で最後。結局、彼のバンドのライブには行くことなく、そのまま帰らぬ人になってしまったのだった。
「あ、あの新大久保、行ったことありますか?」
「ああ、あるけど」
「2021年の夏、新大久保のガードレールにいましたよね」
「なんだよそれ」
と言われたので、当時の動きを再現した。
「こうやってガードレールに腰かけて、タバコを吸って――」
「ああ、そうだったかもな」
「あの時、声かけようと思ったんですけど、怖くてできなくて……」
そう言うとCは、鮫のように尖り、ギラついた歯を見せてニコッと笑った。
「お前、どっからきたんだ?」
「2023年からです」
「ふーん。場所言うだろ、普通」
突然、Cはフラフラとしゃがみこんだかと思うと、咳き込み始めた。何かに咽たわけではなく、体の内側が悲鳴を上げているような咳だった。肩で息をし目を充血させながら、発作を収めるように、再びウイスキーをあおった。
「知ってんだよ、もうそんな長くないって。そうなんだろ?なあ?――」
再び脳裏に「CAUTION:警告」という表示が浮かびがった。そのアラーム音と点滅の刺激の強さに悶絶し、自分は何も答えることができなかった。