三浦日記

音楽ライターの日記のようなもの

オオカマキリと少年Ⅸ——晩年

朝、外に出てみると落ち葉に霜がびっしりとついている。それを踏みしめるとシャリっと霜がつぶれる感覚が伝わってきた。飼っていた最後のカブトムシは、11月の初めの週に死んだ。ある日を境に昆虫ゼリーを食べることが少なくなり、じっとしていることが多くなってきていた。風除室にいる生き物は、カマキリただ一匹だけになった。カマキリの方も、寒さで動きが鈍くなってきているのが目に見えて分かるようになってきていた。家の中ではついにストーブが着き始めた。気温は10度を下回ってきていたので、少年は、カマキリは風除室から玄関へと移動させることにした。

 

11月上旬の晴れの日、少年は虫取りに出かけた。とはいえ、バッタの類はもうどこにも見当たらなかった。いるのはコンクリート塀や外壁に止まっているトンボくらいであった。トンボは日向になっている場所に密集するようにして止まっている。稲刈りが終わった田んぼを見やると、カラカラに乾いた土が露になっている。架干しされた稲わらもなくなり、寂しい風景になっていた。

 

壁のような平面に止まっているトンボを捕まえるのは難しかった。網を止まっているトンボにかぶせるしか方法がないのだが、上から来た物体に対しては、トンボは見事にかわしてしまうのであった。棒切れの場合は、とんと棒切れをたたいてトンボが驚いて飛び上がり、再び止まろうとする一瞬の隙で捕まえることができるのだが、平面の場合、その作戦が通用しなかった。そしてどのトンボも動きが機敏であり、少年が近づいてきただけで、危険を察知するものもいた。彼らは、この時期まで生き延びてきた言わばトンボの精鋭たちなのであった。少年のエサ取りは、難航を極めた。

 

少年は晴れている日は、リビングの日向が当たっている場所にカマキリを出してやった。足の運びは数か月前と比べてゆっくりになった。脚の先端部分は黒っぽく変色し、欠損しているものもあった。この先端部のおかげで壁を上ったり木の枝にぶら下がったりすることができるのだが、それもだんだんとできなくなってきていた。カマキリのシンボルともいえる前脚の動きもだいぶゆっくりになった。これでは野生の昆虫を捕まえることはもうできないだろう。エサをやるために首をつかんでやると、つい2か月ほど前までは、勢いよく前脚を動かしたのだが、今ではやれやれという感じでエサにありつくようになった。食欲も落ちてきたようで、トンボの頭部と胸の部分を半分ほど手に付けたところで残してしまうことが多くなった。それに伴って10月にはパンパンに膨れ上がっていた腹部もだんだんとしぼんできた。

 

11月の中旬、いよいよ、脚の先端だけではなく、第一関節の部分も黒く変色しているものも目立ってきた。水槽にその一部が落ちているのを見つけた。少年は、水槽の蓋を取ることにした。もう逃げる心配もない。少しでも開放的な状態にしてあげようと思った。外にいる虫の数は日に日に少なくなってきていた。日向にあたっているトンボの数も少なくなり、エサが取れない日もあった。カマキリは、壁を上るしぐさもすることなく、まるですべてを悟ったかのように水槽でじっとしていることが多くなった。少年は学校から帰ってくると、できる限りリビングにカマキリを出してやった。カマキリはついに、エサを与えても前脚を差し出さなくなった。掴んだとしても、すぐに放してしまうようになった。口元にエサを近づけると辛うじて顎を動かして食べた。それは、前脚を使って食べることを忘れてしまっているかのようであった。

 

11月下旬、朝起きてくると家の周りがうっすらと真っ白になっていた。ついに雪が積もったのである。それを境に、外の虫は急激に減少し、コンクリートや外壁にいたはずのトンボの姿もどこかに消えてしまった。少年はエサになりそうな虫を探したが、虫はもう、どこにもいなかった。カマキリは昼間にもかかわらず、眼が黒ずんできていた。脚の方も黒く変色しているか、欠損している箇所が目立ってきていた。もう、自由に歩くこともままならない。カマキリは、迫りくる死を待っていた。腹部は上と下がくっつきそうなほどぺったんこになっている。水を含ませた脱脂綿を口元にやると、下のような触覚が反応しそれを飲んだ。少年はせめてもの栄養と思い、時おり牛乳を含ませて与えた。

 

外はもう、虫が生きられる世界ではなくなってきていた。緑は失われ、枯れ葉と木の枝が茶色の世界を形成している。なんとも無機質な色だ。少年は、前脚を触ってみては、それがわずかに反応するのをみて、生きているという事実を確認した。エサを自分で食べられなくなったあとも少年は晴れているときは、リビングに出してやった。歩くこともままならない脚は欠損しているが、まだ動いている。昆虫は死んでしばらくすると脚が内側に折れ曲がってくるが、カマキリの脚はまだ、そうはなっていなかった。

 

11月の末日、少年はカマキリの様子を見た。いつものようにその首の辺りをちょんちょんと触ってみても反応が無かった。この日は一段と冷え込んでいた。少年はすぐさまストーブの焚いてあるリビングにカマキリを移動させた。カマキリは体が暖まってきたのか、ほんの少しだけ動き始めた。厳密に言えば、動いているというよりも痙攣していると言った方が相応しかった。いわば、最後の生体反応のようなものであった。

 

しばらくその様子をながめる。少年の眼には、涙がこぼれていた。少年は、これまでのことを思い出していた。採ってきた卵嚢から羽化したときのこと。アクロバティックにジャンプをしてモンシロチョウを捕まえた時のこと。美味しそうにトンボを食べていたときのこと。旅行先でも虫取り網とカゴを持って行き、お土産のエサを持って帰ったこと。思い出は走馬燈のように駆け巡った。
「今までありがとう」
そう言って少年はカマキリの前脚を触った。一瞬だけ前脚は小さく動いたかと思うともう2度と動くことはなかった。カマキリは力尽きた。窓の外では横殴りの雪が降り続いていた。