2011年3月の時のことについて書いてみようと思った。記憶は年々薄れていく。その11年後の2022年3月、私は当時の記憶を引っ張り出しながらなんとか書き進めていった。以外にも鮮明に覚えているものであった。
そんな最中、"ある出来事"が起こった。以下の日記は、その"ある出来事"が起こらなければおそらく書くことはなかっただろう。これは、図らずして出来上がった、後日譚である。
2022年3月16日
私は仕事から帰り、お好み焼きを作ることにした。上沼恵美子がYouTubeの動画で紹介していたお好み焼きである。小麦粉大さじ1杯に、水を少量加え混ぜ合わせる。そこに、小さめの四角形に切ったキャベツを入れ混ぜ合わせる。入れすぎは禁物。小エビと天かすを加えさらに混ぜ合わせる。ここで納豆を加えてもよい。具材同士が混ざったら、卵を2個割り入れ、軽く混ぜ合わせ、熱しておいたフライパンに広げ、上に豚バラ肉を乗せる。この日は肉がなかったのでロースハムを入れた。生地が固まってきたら、フライ返しとフライパンのふちを利用して円形に成型する。最後にオタフクソースとマヨネーズを格子状にかけ、青のりと鰹節をかけたら完成である。なかなかのものが完成し、満足した。
夕食後、一休みをしているとE君から電話がかかってきた。E君というのは大学時代の友人であり、流浪の民である。収入源はどこから。いや、どこだって構わない。彼は、歌を歌って生きている妖精みたいなものと思えば、何ら差し支えることはない。電話の内容は、将棋をやってみないかというものであった。将棋はかつて、棋士羽生善治の入門書を購入し挑戦をしてみたことがあったが、途中で挫折をした。それもそのはずで、対局をしてくれる相手がいなかったのである。誰が言ったか知らないが、実戦こそ一番の練習である、などという言葉があるように、生身の人間に相手をしてもらわないとやはり、対局の本質のようなものは掴めないものなのだ。そもそも座学の段階から良くなかった。将棋盤と入門書を行ったり来たりしながら、ひたすら唸ってみては、やっぱり自分にはセンスがないのかなぁ、将棋ができる人というのは頭の構造が違うんでしょうね、など愚痴を吐く始末であった。何かを学ぼうとする姿勢としては最低、言語道断である。これには羽生善治も鼻で笑っている。
さて、そんな将棋をやってみることになった。26年の人生で初の対局である。埃がかかった羽生善治の将棋入門を手に取り、iPadで「つぼ将棋」なるサイトにアクセスする。つぼ将棋というのはオンライン対戦のできるサイトで、パスワードとなる「部屋番号」を共有することで任意の相手との対戦も可能になる。E君と電話越しに対局を行う。まったく便利な世の中になったものである。駒の動かし方を、その都度確認しながら打っていく。無論、戦法などなかった。羽生善治は100手先まで読むというが、私は目の前の駒に執着するので精いっぱいであった。E君が手加減をしてくれたのか、どういうわけか初陣は勝利に終わった。調子に乗って立て続けに2局目を行うが、ここではあっさりと負け。勝負の世界というのは一筋縄ではいかないものである。3局を行ったところで、時間は午後11時を過ぎていたので、今日のところはお開きということになった。
「それではまたどこかで。生きましょう」
そう言って、電話を切った。これは我々が行ういつものあいさつのようなものである。別に何かがあったわけではない。
すぐさま私は風呂の準備を始めた。というのもその前日、私は風呂に入らなかった。本当であれば、仕事から帰ってきてからすぐにでも入りたかったのだが、E君から電話がかかってきて、将棋をやってしまったために、こんな時間になってしまったのだった。人生とは必要な作業を行おうとすると、立て続けに物事が舞い込んでくるのが常である。この日はどうしてか、いつもは点けないテレビを点けていた。午後11時からのニュース番組が始まっている。風呂にお湯を張っている間、腕立て伏せを行った。ひと段落し、床に座っていると、テレビの画面から緊急地震速報が流れてきた。その直後、福島県沖で地震が起こった。ニュースはスタジオから福島県沖を映した画面に切り替わり、各地の震度や津波の情報が流れてきた。ここ10年、福島県の方で地震があれば、多くの人間が東日本大震災の余震であるという風に推測をし「ああ、またいつものね」という感じですぐに普段の生活に戻るのが常になっていた。この日もそうだろうと思ったが、その直後、今度は携帯の方で「地震です、地震です」と、緊急地震速報のけたたましい警報音が鳴り出した。さっきの地震のものだろうか。いや、違う。直後、テレビの方でも再び緊急地震速報が流れた。今度は関東地方にまでその範囲が広がっている――。
突然、部屋の電気が消えた。停電である。その直後、激しい揺れが起こった。突然あたりが真っ暗になってから、何かが起こるというのは、ホラー映画の常套手段である。そんなことを考えているうちにも、ゆっくりとした強い揺れは続く。真っ暗で何もわからないが、埼玉で暮らし始めてから一番大きな揺れであったことは確かである。携帯で情報収集を行おうとするが、電波状況が悪く、なかなかつながらない。実家にひとまず無事の連絡をすることにした。どうやら、テキストメッセージの方は送れるようであった。実家の方は停電していないという返事が返ってきた。他の家はどうなっているのか確認するために、一旦外に出てみる。やはり、この辺一帯がすべて停電しているらしく真っ暗闇に包まれていた。部屋に戻ろうとしたとき、隣の一軒家の二階の方から懐中電灯が照らされ、
「お兄ちゃん、大丈夫?」
という声が聞こえてきた。
「ええ、まあ。大変ですね、停電してしまいました」
と答えると、避難先の情報や、さらには連絡先まで教えてくれ、何かあった時には共有しましょう、ということまで言っていただいた。これまで隣の家の人とは挨拶をする程度であったが、非常に心強くありがたいと思った。情報化社会とは言え、電気をはじめとしたインフラが整備されていなければ、全く機能をなさない。そういう時こそ、人間にとって基本的な情報の伝達の手段や繋がり、などという言葉が重要になるのだなと改めて感じた。
蛇口をひねってみると、断水もしている。厳密にいえば、ちょろちょろと水が流れてくるばかりで、完全に止まってしまうのも時間の問題だろうと思った。幸いなことに、すでにお湯を張っていたので、風呂に入ることにした。携帯電話を浴室内に持ち込み、搭載されているライトを点ける。一点の光はぼんやりと浴室内に充満した。湯船に浸かっていると、2011年の東日本大震災のことを思い出した。あの時も、こんな風に懐中電灯を置いて、風呂に入った。体の動きに応じて水がちゃぷちゃぷと揺らめく音だけが響きわたる。そういえば、髪を乾かすすべがないのに、思い切り髪を濡らしてしまった。失敗した。歯磨き済ませ、バスタオルで拭いただけの髪を湿らせたまま、寝床についた。音という音は何も聞こえてこない、あの時の真っ暗な静寂と似たものを感じた。就寝してからしばらくすると、突然電気がついて、思わず起きた。午前2時頃だっただろうか。生活が戻ってきた。私は、一切合切安堵をして再び眠りについたのだった。