三浦日記

音楽ライターの日記のようなもの

Somewhere Near Nibetsu ―仁別(ニベツ)辺り―

太平山前岳登山口からすぐ近くにある*1秋田市植物園に向かう。別段、ガラス張りの温室になっているわけでなく、屋外に人の手によって草木が植えられた公園のような場所であった。そのすぐ横にあるサイクリングロードには苔が緑色の溶岩のように塊になって生えていて、到底サイクリングできるような場所ではなくなっていた。かつては市が管理しており、父もその管理に携わっていたというが、今は民間に委託されたようである。サイクリングロードをしばらく進んでいくと、道はさらに荒れていて草がコンクリートの合間から伸び荒れ放題になっていた。橋の前に差し掛かる。横にぽつんと立っている錆びと泥で汚れた案内標識には「三間(さま)の沢橋」と書かれている。
「昔はこご(ここ)もよぐ通ったけどな」
と父がつぶやいて案内標識のポールをポンポンと叩く。橋は朽ち、ガードレールももはや意味をなしていない。いつ橋が崩れてもおかしくないような場所になっていた。

 

道を引き返し、植物園のメインの場所に向かう。コンクリートで囲まれた堆肥置き場にはかつて木くずが積まれていて、そこにカブトムシがたくさんいたというが、今は草が生えており、遺構のような佇まいになっている。
「昔はこご(ここ)で育でだカブトムシを子どもたちに配ったんだ――」
そのすぐ近くに大木が生えていた。父はその木を見て立ち止まった。
「父親からもらった枝垂れ桜だ。大木になったな。植物園が開園する時に『持ってげ』って言われでな――。それで貰ったもんなんだ」
植物園が開園したのは1989年のことだから、今から30年以上前ということになる。通路をさらに進んでいくと、父が設計したという橋があったが、ここも例によって朽ちてきていて、通行禁止の札が下げられていた。橋の上は苔でカーペットのようにびっしりと覆われ、その上に落ち葉が敷かれていた。
「防腐丸太で作って、10年くらいは大丈夫だったけども、やっぱり腐ってしまったが」

 

橋の奥の方には昼間なのに薄暗く湿気の多い藪が広がっている。この辺はヤマビルが多いエリアのようであった。植物園は、自然に飲み込まれようとしている。おそらく10年後はもっと自然に取り込まれていて、こうした人工物はさらに朽ちているのだろう。植物園は、徹底的に管理された日本庭園のような趣こそないが、それでも周辺を散策している人がちらほらいた。突然、あずまやから若い叫び声が聞こえる。どうやら虫が近くにやってきたらしかった。芝生の広場の隅の方に案内看板が、物悲しく佇んでいるのを見つける。開園当時に作られた、今ではすっかり珍しい手書きの看板であった。人は30年で様変わりするが、自然もまた同様である。一見緩やかそうに見えても、その小さな集積によるダイナミズムというのは人間が思っているよりもはるかに大きいものがある。

 

植物園から藤倉水源地へ向かう途中、父が若い頃に先ほどの植物園で一緒に働いていたという女性に出会った。父は車の中でもしかしたらと言って、近づいてみたらやはりその人であった。齢80は過ぎているだろうか。初めは父のことが分からない様子であったが、当時から数十年が経過し、白髪になっていたから無理もない。当時のことを説明していると、次第に思い出してきたようであった。足袋を履き、今はなくなった前岳の山小屋の方まで登っていたという。植物園の事務所で、地元の人たちと飲むこともあったそうだ。なんと、おおらかな時代なのだろうか。別れ際、カメラで一枚撮影した。14時前、藤倉水源地の記念公園に到着する。ここは小学校5年の校外学習の時ぶりであった。水源地までの道に毬(イガ)栗が落ちていた。落ちていた、というよりもむしろ散乱していたと表現した方がいいかもしれない。中には種子がバラバラになっているものもある。無論、これはクマの仕業であった。水源地に近づくにつれ、ゴーッという流れが聞こえてくる。赤い橋の下、滝のように直角に水が流れるコンクリートダムは、こじんまりとしているがなかなか迫力がある。今は使われてはいないが、ここはかつての上水道源としての機能を果たしていた場所である。明治期の重力式コンクリートダムとして、国の重要文化財にも指定されている。

 

続いてそこからほど近い*2仁別森林鉄道の跡地の方へと向かう。というのはかつて、秋田駅東口にあった貯木場にまで続く鉄道が、仁別から旭川地区を通っていたのである。この辺りにはロマンがある。今ではすっかり車社会になってしまったが、現在も森林鉄道が運行していたら――。藤倉水源地がまだ現役で秋田市に水道を供給し続けていたら――。そのようなことを勝手に想像してしまう。森林鉄道跡地は現在、サイクリングロードになっているが、例によってサイクリングは出来そうにないほどの落石がゴロゴロ転がっていた。とはいえそんなことを気にしない我々は、道を進んでいく。宮殿の回廊ようなコンクリートのトンネルを進んでいく。アーチ状になっている所から、先ほど見上げた藤倉水源地を見下ろすことができた。人が通った後がなく、蜘蛛の巣が張っていたので、父は木の枝を杖のように振り回して巣を払いながら先導していく。トンネルを抜けると、整備されていない道が続いていく。ガードレールはおそらくは雪の重みでひしゃげており、カーブミラーと思しきものは横たわり、その役目を果たせずにいた。午前中は快晴だった空には雲がかかり始めている。

 

洞門が見えてきた。この洞門から先の道は緩やかな傾斜が続いており、つまりここで滑り止めの砂を焼いていたことが想像できる。ライトで洞門を照らしてみると確かに、煤で黒くなっているのがわかる。今から70年近く前のものであるが、その面影を残す貴重な場所である。父のそのまた父は、かつての営林局で働いていたというが、森林鉄道で仁別に来ることがあった際、まさしく斜面で砂が撒かれる様子を見ていたのだという。そのすぐ横にあるのが「洞門の橋」。さらに進んでいくと木々がうっそうと茂る場所に入っていく。そこを過ぎると今度は道が開け、旭川上流の密やかでありながら荒々しく流れる川が現れてくる。曇天と相まって北欧だとか、イギリスの河川の風景を想起させた。ここを勝手に「ムーミンの川」と名付けることにした。この辺りで引き返すことにすると、ボッボッボッボッボ……という人工物のような低周波の音が聞こえてくる。車内で音楽を大音量で鳴らしている車から漏れる音を外から聴いているような感じの音だ。無論これはこれは機械の音などではなく、川の水が空気と混ざり合って生じた音。自然界の低周波の音には趣がある。川の様子と音を録音したものを24時間流し続けるライブ配信があったらそこそこ観る人がいるのではないかという妄想をした。

 

来た道を引き返す途中、山菜を見つけた。シドケ、アカミズ、アオミズ、自然薯のムカゴ、そして秋の味覚ことアケビ――。アケビは数個成っていたので、父が実が開いているものを一口食べ、自分も食べることにした。紫色の果実を割ってみると、白いゼリー状の物体が現れた。それを口に入れた瞬間、上品な甘さが広がってくる。例えるなら、水まんじゅうをクラッシュさせたような感じだろうか。南米原産の果物にはない、素朴な味である。日本に古来からあるお菓子はこうした自然の甘さが基準になっているような気がする。日本の甘い点に収束した味だ。その都度種をペッと吐き出す。アケビの果実の外皮は持って帰ることにした。帰り道、初老の男性に
「調査ですか」
と聞かれた。確かに、山用の格好にカメラを持ち、あちらこちらの植物を観察する様子は、はたから見るとそのように見えてもおかしくない。父は好奇心の塊であり、その心は息子の方にも受け継がれたようだった。車を停めた坂道の途中にあった山葡萄を頬張る。ほのかに甘く、直後に酸味と渋みが口の中に広がる。これでぶどうジュースを作ると美味しいのだとか。ふと、スマートフォンを見てみると母から
「帰りは何時になりそう?」
というLINEメッセージが来ていた。親子共々、すっかり夢中になってしまっていた――。急いで連絡を返す。夜は、先ほどとってきたアケビの外皮をネギ味噌焼きにした。後味がほろ苦い。地酒の肴にピッタリである。かつての面影をたどった秋、仁別辺り。

 

www.miuranikki.com