観測史上最大級の暴風雨のようなライブ——。「有明サンセット 2022」2日目の3組目は"ダークホース"、エレファントカシマシ。本イベントは、8月の初めになるまで、残り一組が誰になるのか未発表であった。例年、若手から中堅のアーティストがラインアップに軒を連ねることが多いのだが、今年はなんと、エレカシが発表されたのだった。エレカシといえば、今年の6月まで宮本浩次がソロの全国ツアーを行っていたこともあり、バンドとしての活動は新春ライブと日比谷野外音楽堂でのライブを除いては、ほとんど行っていなかった。フェス形式のイベントの出演も宮本浩次としての出演であり、バンドとしての出演とのことで非常に驚いた。サウンドチェックの段階からその前に出演していた優里と、格段に音の大きさが違う。無論、爆音なのはエレカシの方であった。
場内が暗転し、盛大な拍手を浴びてメンバーが登場する。下向き加減のフロントマン宮本の顔は長髪に隠れており見ることはできない。会場はたちまち"異形"を目撃してしまったかのような、畏怖と興奮の入り混じった空気に包みこまれた。その空気を壊すかのように宮本はあいさつ代わりの、両手を広げ、片足を上げたポーズをとる。一曲目は「地元のダンナ」。近年のいわゆるフェス形式のイベントでは珍しい選曲である。宮本は少々長めにイントロのコードを弾き続け、そこに他のメンバーが追従していく。この日の宮本の声はリミッター装置が外れているかの如く、凄まじい音圧であった。限界を突破した声帯にはノイズがかかっているものの、宮本はそれもろともしない。歌を届けるというよりは、「かかってきやがれ」と言わんばかりに歌を誇示しているかのようである。アウトロの部分では、リフのフレーズのメロディを〈ダンダンダダンダンダンドゥダンダン〉とがなり立てながらスキャットし、つんざく様なシャウトを連発する。先ほどまでのステージで醸成されてきた"スピッツ愛"だとか"祝祭感"のようなものは、一瞬にして破壊されてしまった。
続いて「デーデ」、「星の砂」とファーストアルバムの楽曲が立て続けに披露される。宮本はリフを弾いたのちギターを無造作に置き、ステージを縦横無尽に駆け巡っていく。舞台の端の端まで行き、仕舞いにはカーテンをめくって機材を露わにさせたりと"やりたい放題"である。歌い方もデビュー当時の頃のように粗く、もったりとしている。この日は「オイ!」だとか「オラ!」といった合いの手が多い。そこには"怒り"だとか"世間への嘲笑"といった感情が凝縮されているように思えた。「デーデ」の〈世の中まるく治めるなら 頭脳はいらないさ 少しばかりの悪知恵と 金があればいい〉や「星の砂」の、〈へなへなで弱い人たち*1に 神の心を育てよう〉、〈ハレンチなものは全て隠そう そして民衆は耐えよう〉という歌詞に関しては、昨今の日本を取り巻くニュースと妙にリンクをしてきた。そしてそれを、不特定多数の音楽ファンのいるイベントで高らかに歌うことのある種の痛快感すら覚えた。他のメンバー達は、宮本の一挙手一投足を見逃すまいと必死に食らいつき、緊張感を持ったステージに仕立て上げていく。会場に手拍子が起こることはなく、誰もがみな固まったように動かない。彼らが演奏する姿をただただじっと見つめている。まるで、厳粛な神事に参加しているかのようだ。
イベントを主催したスピッツの草野マサムネはかつて、デビュー当時のエレファントカシマシについて、
「ぶっとんで、正座して聴いていた」
「ライブも衝撃的で、当時、客電もつけっぱなしでお客さんも着座のまま、ずっと怒られてるような感じ」
という風に言っていたが、そんな青年の頃の宮本を、まさか2022年になって観られるとは思いもしなかった。これは、紆余曲折を経て間口を広げたスタイルとなった今現在の彼らの単独公演では成しえないだろうし、やはり、不特定多数の音楽ファンがいる中で、いわゆる大衆に"媚びない"楽曲を演奏したことがその要因として大きいだろう。さらには、コロナ禍で声を出せないという制約が奇しくも、当時のスタイルの体現に大きく寄与したともいえる。
会場を更なる混沌の渦に陥れたのは「珍奇男」であった。アコースティックギターで弦が切れんばかりの勢いで弾く宮本、その音圧に背反するような奇妙奇天烈な歌詞に、脳の処理が追い付ついていかない会場は、異様な空気に包みこまれていく。〈世間の皆さん 私は誰でしょうね わたくしは珍奇男 通称珍奇男〉——。「今宵の月のように」、「風に吹かれて」、「俺たちの明日」——。彼らの代表曲のみをおさらいして会場に訪れた人達はおそらく、そのスタイルや音楽性がほんの氷山の一角に過ぎないということをまざまざと体感させられたはずである。曲の中盤あたりから、バンドサウンドが徐々に構築されていき、曲の終わりにそれがピークを迎える。もはや伝統芸能、あるいは無形文化財の領域と言ってもいいのかもしれない。アウトロの部分は30分という時間の制約ためか、普段のライブよりも短めに切り上げ、急ぎ足でフィナーレのフレーズへと突入する。急かされながら強引に締められる「珍奇男」にも滑稽で頓狂な趣があった。
「マイクのコードさ、ワイヤレスの方良くない?側からみてると面白いんだよ」
と、自身のマイクのコードがライブの最中に絡んでしまう話から唐突に始まった「RAINBOW」。「珍奇男」でぐちゃぐちゃにした会場をさらなる暴風雨に巻き込んでいくような凄まじい絶唱であった。その直後、
「みんなに捧げます」
と言って披露された「悲しみの果て」で、先ほどまでの張り詰めていた空気が一気に緩む。まさに、台風の暴風域に一瞬だけ垣間見える「目」のような瞬間であったといえよう。宮本はあれだけ喉を酷使した楽曲を連続して歌っているのにもかかわらず、間髪を入れずに曲に突入するのにも驚愕したが、その歌声が先ほどまでと打って変わり、"伝える"歌声へとギアチェンジしていることにも驚いた。近年、この曲は宮本がギターにファズを用いて潰れた歪みの轟音を鳴らし、背反するように石森のリードギターの歪みがほとんどないというミックスであったが、今回サウンドのバランスは宮本と石森、6対4くらいになっており若干の変化がみられた。
ライブの締めくくりは、アンコールでお馴染みとなった「ファイティングマン」、ではなく「so many people」。時間が差し迫ってきているのか、ギターを持ってきていたローディーがはける前に曲が始まる。宮本の長髪は汗でぐしょぐしょになり、時折髪をかき上げると、その表情が見えた。登場時よりも一回りも二回りも若々しく、青年のようである。会場中の生気を吸い込んでしまったかのような、まさに妖怪のような佇まいをした"異形"の姿がそこにはあった。最後はメンバー全員で肩を組んで頭を下げる挨拶、通称"ストーンズ挨拶"をして出番は終了。宮本は一度ステージ袖にはけようとしたものの、また戻ってきて一言、
「次は、スピッツだ!」
と言ってから、そそくさと消えていった。この日の主役はあくまでもスピッツということを忘れさせない何とも粋な一言であった。はける際ギターを踏みつけたのか、会場には「ジャーン」という開放弦の音が響き渡っていた。
つい先日、9月25日に行われた日比谷野音でのライブのセットリストの短縮版という感じだろうか。とはいえ、世にいわれる代表曲は「悲しみの果て」のみという、攻めに攻めたセットリストになった。良い意味で予想を裏切られたステージであった。特に「珍奇男」に関しては、フェス形式のイベントで演奏されたのは、2010年以来12年ぶり*2のことであった。宮本はMCでスピッツについて、
「同年代のライバルだと思ってます」
と話していたが、そんな宮本から湧き上がってくる止めどないハングリー精神のようなものが、このようなステージにさせたのではないだろうか。そしてそこからは、スピッツに対する最大限のリスペクトを感じる。スピッツは、宮本浩次ではなくエレファントカシマシを呼んだ。それにエレカシはどこまでも実直に楽曲で応えた——。エレカシという"嵐"が過ぎ去った後の会場は、"台風一過"のようにすっきりと晴れ渡っていた。
セットリスト
1. 地元のダンナ
2. デーデ
3. 星の砂
4. 珍奇男
5. RAINBOW
6. 悲しみの果て
7. so many people