三浦日記

音楽ライターの日記のようなもの

エナジードリンクのジレンマ

雨にも負けず、風にも負けず——。ある夏の朝、とある駅の出口を出るとエナジードリンクを配っている威勢の良い女性たちがいた。黒地に緑の三本の爪痕が荒々しく刻まれたロゴが印象的な、あの由緒正しきエナジードリンクである。ドリンクの缶のパッケージを模したドラム缶サイズの容れ物を置き、その中からドリンクを取り出しては、
「新発売のフレーバーでーす」
などと言いながら、道行く人に配っている。このキャンペーンは、告知もなしに、人通りの多い場所、たとえば駅前や交差点にゲリラ的に現れては、無料で提供してくれるというものである。仕事や人生に疲弊しきった日本人にとっては、ある種"救い"のような存在である。無償の愛、現代版マザー・テレサがそこには、いた。

 

例によって、筆者も貰いに行くと、
「ありがとうございまーす、学校ですかー」
などと聞かれ、
「いえ、これから仕事で……」
と答えると、
「そうなんですねー!頑張ってくださーい!」
と、真夏の太陽さながらカラッとした口調で激励されながら、エナジードリンクを渡してくれる。まちがいなく"街中で配布しているもの"史上で一番うれしいものである。次点は街頭配りの王道ポケットティッシュであるが、そのゲーム差は大きく離されており自力優勝の可能性は消滅している。エナジードリンクは、ドリンク缶を模した容れ物の中で冷やされており、渡されたときには水滴が滴っていた。エナジードリンクを配る人たちはもれなく、日焼けサロンに通っているのか、はたまた海やキャンプなどのアウトドアレジャーによく行くのか、褐色に焼けた肌に、白い歯がキラキラと輝いている。夏の暑さにも負けぬ丈夫な体を持ち、いつもさわやかに笑っている——。これには、かの宮沢賢治がご健在だったなら、興奮を隠せぬご様子であったはずである。

 

と、ここまで「もらって嬉しい」などとつらつら書いてきて大変恐縮であるが、エナジードリンクは、自分から進んで買って飲むことはほとんどない。こうして街中で配布されているものを飲むケースがほとんどであった。自身の行いは、無償の愛のいわば乱用、であった。というのも、その独特な味は非常に好きなのだが、とある経験をして以来、その類のものはあまり飲まなくなってしまったためである。「飲まないなら、貰うな」という論調に関しては、この後に言及するとして、とりあえずはそのときの体験談というほどでもない出来事を書いてみたい。

 

とある日の朝、駅前でエナジードリンクが配られていたのでそれを貰い、すぐに飲んでみたことがあった。しばらくすると、活気がみなぎってきた。どうも、プラシーボ効果ではなさそうなみなぎり方であった。いつもは昼食をとった後、たいてい昼寝をするのだが、その日はまったく眠くならない。厳密にいえば、寝なくても別に良いという状態になった。当然、仕事の進み具合も快調であった。そして、仕事が終わり、いざ帰宅しようというときに異変は起こった。

 

気分が、びっくりするほど落ち込んできたのである。仕事の最中は何ともなかったのに、突然人生の終わりのことを考えたり、
「周りの人と比べて自分は何をやっているのだろう……」
などといったマイナスな思考回路が活性化されてきたのである——。これは、エナジードリンクの副作用であるとは一概には言えないのかもしれないが、その日のいつもと変わったことといえば、エナジードリンクを飲んだことぐらいだった。"元気の前借り"とはよく言ったもので、それ以来、エナジードリンクの類はあまり飲まなくなってしまったのであった。

 

——そんなことになるのなら、そもそもエナジードリンクなど貰わなければいいではないか。至極真っ当な意見が、どこかからともなく聞こえてくる。が——貧乏性の自分は、駅前で配っている人を見かけると、考える前に反射的に貰ってしまうのである。なんと悲しい性なのだろうか。貰ってしまう理由はそれだけではない。あの特別感とでも言おうか、何気ない日常に突如として現れた疲れを瞬く間に紛らわせて癒してくれる奉仕者たちにワクワクしてしまう自分がいるのだ。その姿に感服し、救いの手を求めてしまう。そして、そのときばかりはエナジードリンクによって自分の体に引き起こされる体調の異変に関してはまったく忘れてしまっている。キャンペーンに介入する、それだけで満足なのである。企業の術中にはまっているって?ええ、そうですとも、それでも構わない。
「はい、どうぞー!エナジードリンク好きですかー?」
「ええ、まあ……」
無論、強がりである。こうして黒地にスタイリッシュな傷跡や模様が刻まれたパッケージの缶は、中身を消費されることなく家の棚に溜まってゆく。仕舞には、家にやって来た人に、
「そういえば、エナジードリンクあるんだけど、持っていかない?」
などと言って、持っていってもらうほどである。こちらの方は紛れもない偽善であった。これにはコルカタのマザーもあきれている。