※この記事には"昆虫"が登場します。苦手な方はここでドロップアウトなさることをお勧めします。
この日はトルコ南部のアンタルヤというところにいた。ここはマナウガト(Manavgat)というエメラルドグリーンの滝と、地中海が有名なリゾート地であった。筆者は、内陸に位置するネブシェヒルで過ごしていたが、「君たち、海に行きたくはないか!そうだろ!」というコーディネーターの粋な計らいにより、週末2泊3日の小旅行に行くことになった。本来であれば、これ以上ないくらいの喜びを爆発させたいところであったが、筆者はその直前に食した"ブドウ"にあたってしまい、激しい腹痛に襲われている真っ最中であった。ネブシェヒルのホテルに留まっていたい——。しかしながら、自分たちが泊まっていた部屋に、次の"刺客"が現れるということで、やむなく退却する運びとなったのだった。
この話は、その2日目に泊まったホテルで起こった出来事である。この日も長時間バスに揺られ、燦々と照りつける太陽の下、海ではしゃぐ人の傍で天日干しにされたが、前日病院からもらった薬が効き始めているのか、ホテルに到着する頃には腹痛の山場は越えていた。部屋は海に面した、オーシャンビューで、先ほどまで自分を散々照らしつけていた太陽は、情緒あふれるオレンジの光に変わっている。筆者と部屋友達は、エアコンをつける代わりに窓を全開にした。これが、悪夢の始まりであることはつゆ知らず。そして我々は、夕食を食べに部屋を出た——。
いまだ腹痛で本調子ではない私は、夕食後のベットで横になっていた。ちょうどその頃日本では、〈FUJI ROCK FES. 2018〉が行われていたので、YouTubeでその生配信を観ることにした。もちろん、部屋の窓は開いた"まま"である。画面から流れるライブ映像に没頭していると、明らかに音楽とは異なった音域の音が、スマホのスピーカー以外から聞こえていることに気がついた。何かおかしいと思い、壁を見やってみるとそこには......、無数の蚊が壁紙の模様と見間違えるくらい、びっしりと張り付いていた。真っ黒の同じ形をした点々模様が、白い壁と見事なコントラストを成している——。そして天井を見上げると、ライトの周りには、蚊柱のようなものが見えるくらいに蚊が飛んでいるではないか。プーンという不快な音が、様々なところで鳴り響き、部屋の中はモスキート音のサラウンド音響になっていた。蚊は、ベッドのシーツにも、ベットの間の間接照明にも大量についていた。
私は腹痛を忘れ、部屋を飛び出した。ホテルのロビーにいると、下の階から上がってくる部屋友達を発見した。どこに行っていたのかと聞いてみると、下で行われている結婚式の前夜パーティーに参加していたとのことだった。トルコでは、結婚式の前夜パーティーに見ず知らずの人間が参加することはいたって普通のことであり、冷たい目で見られるどころかむしろ歓迎される。筆者の部屋友達はジュネイドと言って、パキスタンで薬剤師をやっていて、非常に社交的で、紳士的な人物だった。私は彼に、
「部屋が大変なことになっているんだ!窓開けておいたでしょ、それで蚊が大量に入ってきてる!」
と伝えると彼は、爆笑してこう告げた。
「とりあえずその話は、下に行ってダンスしてからにしよう。さあ!」
そう言って、腹痛の筆者を半ば強引に連れ出した。
こうして我々は、ホテルの外で行われているダンスに参加した。芝生の会場は様々な色でライトアップされていて、音楽が大音量で流れている。DJブースの隣に伝統楽器サズのプレイヤーがいて、会場を盛り上げている。私は列席者の1人から、柄の短くなっている木のスプーンを4つ渡された。これは、食事をするためではなく、ダンスをする時に、スプーン同士をカスタネットのようにして使うためのもの。それを打ち鳴らしながら、音楽に合わせて踊り続けた。踊り始めから1時間は経過した頃、我々はふと、
「そういえば、部屋......」
ということを思い出した。
部屋に入ってみると、その状況は変わっているはずもなく、依然としてそこは"蚊の王国"によって支配されていた。両者共々、殺虫剤や虫除けスプレーの類は一切持っていなかったので、隣の部屋にいたスクール・メイトにお願いしてみると、一本のスプレーを渡してくれた。
「これは、"虫除けスプレー"なんだけど、とにかく強力で。室内で使うと......」
我々は、その副作用を聞くまでもなく、その"強力"というワードに惹かれた。よし、これだ!すぐさま、ジュネイドが殺戮兵器を持って、蚊の王国に決死の突入し、私も後に続いた——。
スプレーを部屋に吹きかけると、床やベットに次々と、屍が力なく落ちていく。果たしてこれは本当に虫を"除ける"ためだけのものなのだろうか。結果は、我々の勝利。無事に、領土の奪還に成功した。しかしながらその代償は大きく、しばらく咳が止まらなくなった。我々はよろめきながらも固く手を握り、その勝利を讃えたのち、部屋の外に倒れこんだのだった——。そしてようやく訪れた、安息の時間。電気を消して、しばらくすると、再び、プーンという羽音が部屋中に響き渡った。