三浦日記

音楽ライターの日記のようなもの

【トルコ滞在記15】猫の楽園、イスタンブール

 結構前に流行っていたツイートで、トルコのファッションショーでネコがランウェイを闊歩しているものがあった。これぞまさに"キャット・ウォーク"だ、なんてことを言われていたが、そもそもなぜネコは建物内に入ることができたのか。

 

 というのも、トルコの人々にとってネコというのは大切にすべき存在なのである。そこにはイスラム教が大きく関係している。トルコの99%以上の人々が進行するイスラム教においてネコは、古代オリエントの時代からで尊ばれ受け入れられてきた。その要因としては、預言者ムハンマドやアブー・フライラにまつわるネコ好きの伝承がスンナとなったことが挙げられる。ムハンマドは「猫への愛は信仰の一側面である」と言ったと伝えられ、さらにハディースは自分の外套の上でネコが出産することを許し、自分の可愛がっているネコが彼の礼拝服の上で寝ていたとき、起こさないように服の袖を切り落としたという逸話もある。こうした行いは、イスラム教の「主となる慈悲心」という観念に適合している。つまり、ネコはいわばその象徴なのだ。

 

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 トルコのネコをドキュメンタリー形式で追った『Kedi』という映画では、イスタンブールの美しい景色をバックに、自由奔放で可愛らしいネコたちの様子が描かれている。トルコの人々は、ネコが店の中もしくは自分の家の敷地内に入ってきたとき、それを許容する。それどころか餌を与え、世話さえもするのだ。実際にトルコに行ってみると、人々のネコに対する優しさをまざまざと感じることができる。

 

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 こうしたネコに対する振る舞いをそのまま日本に置き換えてみると、中には許容する者もいるかもしれないが大抵は追い払ってしまうだろう。ここでいう日本のネコというのは飼いネコかそれ以外の野良ネコである。前者はある一つの世帯という共同体の中で生活をし、後者は捨てられたか、飼い主のいないネコであるために、人間の共同体には属さずに生活をしている。共同体に属している場合、その共同体の範囲というのは一世帯というかなり限定的なものであり、属していない場合は自分とは関係のないものとみなされ排他的な扱いを受けることが多い。

 

 それは「ネコ好き」という人にとってもある程度は言える。飼いネコ(飼い主の共同体に属する)を可愛がるだろうし、共同体に属していない野良ネコを傍目から見て可愛がることはあっても餌を与えたり、家の中に入れて世話をしたりすることまでは到底しないはずだからだ。先日、コンビニにネズミが侵入したという話題。では、ネコが侵入したときはどうなのかというツイートもまた話題になっているが、日本のネコに対する扱いはまさにここに凝縮されている。野良ネコという概念、そしてそれが人間の空間である建物に侵入するという行為に対して嫌悪感を抱くということである。

 

 トルコの人々の猫に対する扱いに立ち戻ってみると、先にも述べたように、その扱いは日本とは対称的である。そこには猫を一世帯、一個人で飼っているという認識はなく、一つの町、地域という大きな共同体の中で飼っているという認識があるのだ。「共同体」という言葉を再三使用してきたが、日本とトルコのネコに対する考え方はこの「共同体」の範囲の差に一つの相違点を見いだせるのではないだろうか。そういうわけなのか、トルコのネコの表情は、日本のネコと比べてかなり穏やかである。愛されているというか、近寄って行っても抵抗することなくなすがまま、身をゆだねてくる。帰国後、家の近くによく出没するネコに近づいてみた。無情にも、「ニャッ」と短く鳴いてどこかへ走り去ってしまった。近所のネコと仲良くなれる日はまだ遠い…。