三浦日記

音楽ライターの日記のようなもの

路地裏猫街道 2

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ある日、目が覚めてからいつものように、窓の外をのぞいてみると、"猫のお爺さん"はすっかり狼狽していた。突然、猫が路地裏からいなくなってしまったのである。彼は、
「おーい。どこに行ったんだい」
と、猫を呼ぶ合図を口で鳴らしながら、ときおりそのように呟き、路地裏をどんどん進んでいった。手には、餌の入った銀皿があった。路地裏を一通り歩き終えたのか、再び老人はこちらの方へと戻ってきた。どうやら猫は、一匹も見つからなかったようだった。老人は、餌の入った銀皿を手に持ったまま、路地裏を後にした。

 

その日の昼を回った頃、買い物から帰り、駐輪場に自転車を止めようとしたそのとき、とある世間話が聞こえてきた。恰幅の良い中年女性と、細身の中年女性との会話だった。おそらく、近所に住んでいると思われるが、会話はおろか、あいさつしたことさえもなかった。二人とも、前の話題に尽きたのか、路地裏の方に目をやった。ほどなく、再び新しい話題を見つけたと言わんばかりにこう言った。
「あ、そういえば、今日は野良猫いないのね」
「あの猫ねぇ、いなくなっちゃったみたい。なんか、市の職員なんだか、業者かはわかんないけど、一斉に捕まえるっていう話は聞いていたけど」
「あの路地裏、野良猫がたくさんいたものね。保健所にでも連れて行かれてしまったのかしら」
「どうなんだかねぇ。毎朝、猫に餌をあげる人がいたのよ」
「知ってる知ってる。結構、歳いってる人でしょ」
「そうそう、それがまた迷惑でね。どんどんどんどん増えちゃって、それを見かねて近くに住んでる人が、苦情を出したみたいよ」
私は、自転車を点検をしているふりをしながら、二人の会話を一通り、聞いていた。

 

あの日以来、路地裏から猫は、いなくなってしまった。けれども老人は、毎朝いつもの決まった時間に現れた。手には餌の入った銀皿を持って、口で猫を呼ぶ合図を鳴らしながら、その間に
「おーい、どこにいるんだい。出ておいでよ」
と言って路地裏を歩く。そして、猫がどこにもいないことを確認すると、とぼとぼと路地裏を後にするのであった。その後ろ姿は日に日に、力をなくしているように見えた。路地裏を行く人びとは、その姿に同情するはずもなく、むしろ猫に餌をあげている頃よりも、あからさまに猫のお爺さんに対して嫌悪の視線を送るのだった。

 

唯一、積極的にお爺さんに加担してくれる存在がいた。それは近所の幼稚園児だった。園児は、猫がいなくなってからもなお老人のことを、猫のお爺さんと呼び続けた。園児たちは路地裏を通るたびに、
「猫のお爺さん、今日は猫見つかった?」
「ねえねえ、猫はもういなくなっちゃったの?」
と、質問した。その様子は、老人に同情するというよりも、自らに沸き立ってくる純粋な好奇心を抑えきれず、思わず出てしまった言葉のように聞こえた。そのたびに老人は、
「今日はこなかったけど、また明日帰ってくるかもしれない。そのために、こうやって餌を持ってこなくちゃいけないんだよ」
そう答えるのだった——。

 

私は、猫をの様子をぼんやりと見るという、早朝の日課ができなくなってもしばらくは、老人の様子を気にかけていた。しかしながら、いつのまにかその日課さえも、まるで今までなかったかのようにあっさりと無くなってしまっていた。猫がいなくなってから、数ヶ月が経ったある日、私は午前中から用事があったことを思い出し、早朝家を出た。すると、路地裏には老人が立っていた。その瞬間、これまで自分が猫と、老人の様子を見るという日課があったことを思い出した。相変わらず老人は、餌の入った銀皿を持っていて、その姿は別段痩せているというわけでもないのに、さらに弱々しくなっているように見えた。

 

私は、思わずあいさつをした。すると老人は、
「最近猫は、めっきり見かけなくなってしまいました。一体、どこに行ってしまったんだろう」
と言って、路地裏の先の方を見やった。まるで、別の世界に消えてしまったかのように、不思議そうに語る老人はどうやら、彼らが保健所に連れて行かれてしまったことを知らないままのようだった。
私は、猫の正確な居場所を、老人に伝えるのはやめた。
「今は猫の世界にいってるんじゃないですか。猫だけが暮らす町。たぶん、あなたのことが恋しくなって、そのうちまた帰ってくると思います」
代わりに私は、そう伝えた。自分でも馬鹿馬鹿しく思えてしまうような、夢想じみたことを口走ってしまったために、私は少しだけ赤面した。けれども、老人はそれを、揶揄するどころか、
「そうですか。だから、いないんですかね。そう思うと、なんだか安心しました」
老人は安堵の表情を浮かべながらすんなりと受け入れてくれるのだった。程なく老人は、
「ありがとう。それではまた」
と言って、また猫を探しに行った。猫はもうどこにもいないが、老人の足取りは、少しだけ軽くなったように思えた。

 

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