三浦日記

音楽ライターの日記のようなもの

ある元旦のこと、続(つづき)

1月3日

祖父の遺体は、実家ではなく、五城目町の葬儀場へと運ばれた。葬儀場の中に寝泊りができるような部屋があって、遺体もそこに運ばれた。小綺麗な和室で、冷蔵庫や調理場、さらには浴室まであって、旅館の一室のようになっていた。

 

祖父の棺に入れるものを取りに、一度の祖父母が暮らす家へ戻ることになった。丸一日空けていた家は、外との区別がつかない位に冷えきっていた。祖父が作業していた応接間へ向かう。そこには作業途中の五線譜と、鉛筆が置かれたままであった。祖父は、音楽を愛していた。何も書かれていない五線譜と楽譜、使いかけの鉛筆、そして、愛用していた帽子を持って再び葬儀場へ戻るのだった。母と姉が握ってきたおにぎりを、皆でほおばった。

 

夕方、納棺師が来て、祖父の旅立ちの準備をする。納棺師の所作を見るのは、父方の祖父以来であった。唯一違っていたのは、当時は実家でそれを行っていたということだった。現在は葬儀場でそれを全て済ませてしまうのが一般的のようである。納棺師の所作は、洗練されていた。まずは祖父の体全身を拭く。それから、親族が順番に祖父の体を拭いていく。このときはどこを拭いてもいいといわれたので、祖父のトレードマークだった無毛の頭頂部を拭いた。

 

続いて、死装束の着替えが行われる。病院で使った浴衣の上に真っ白の死装束を被せ、そでに腕を通していく。祖父の腕は驚くほどやせ細っていた。その上から、鶯色の光沢のある着物を被せ、真っ白の死装束と同様にそでに腕を通す。一通り終わると納棺師は、一番下の浴衣を起用に脱がせ、祖父は死装束に着替えられた。手甲と脚絆、足袋、わらじはそれぞれ親族がつけた。私は足袋を付けた。祖父の足は、亡くなってもなお浮腫んでおり、その壮絶さがうかがえるのであった。

 

最後に数珠を付け、指を交差させる。死装束の着替えが終わると今度は、祖父の顔に化粧をしていく。顔に保湿クリームを塗ったり、ファンデーションを塗ったりと、死者であるのにもかかわらず、まるで生きているかのような納棺師の所作は不思議だった。亡くなった直後よりも見違えるように美しくなった祖父の姿に感動した。これは宗教的な歴史はないとはいうものの、とても意義のあるもののように感じるのだった。祖母と叔父さんを残し、私と両親、そして姉夫婦は、葬儀場を後にした。

 

1月4日

この日は、火葬が行われることになっていた。しかしながら、その前に心配事が一つあった。祖父の遺影がまだ届いていなかったのである。遺影は、祖父が亡くなる前、写真屋の友人に撮ってもらっていたという話であった。そして祖父は、その友人に弔辞も読んでほしいということも、遺書に記していた。その確認をするために叔父さんは、前々日の2日に写真屋に電話をした。

 

すると写真屋は、弔辞を読むことをすっかり忘れてしまっていた。それどころか、遺影を届ける場所がどこなのかも分からなくなってしまっていた。いや、分からなくなったというよりも写真屋は、親族が集まっている葬儀場の部屋ではなく、もぬけの殻の祖父母の家へと向かっていた。叔父さんは、もう一度葬儀場の場所を丁寧に伝え、弔辞を読んでもらうことは断念することになった。けれども写真屋は、葬式前日の3日も現れなかった。再び、吸い寄せられるかのように、写真家は祖父母の家へと向かっていたのだ。そして、4日の早朝、遺影はようやく届けられた。

 

東北の地域では、葬式の前に火葬を済ませてしまうのが一般的な習わしであった。そのため、この日が故人との最後のお別れの瞬間ということになる。朝から、大勢の訪問客が来ていた。祖母は、腰を曲げながら、その都度丁寧に応対していた。午前11時半ころ、出棺の時間が近づいてきていた。祖母は、祖父の亡骸をじっと見つめ、呆然としていた。それに見かねた母が、
「どうした、母さん」
と、声をかけると祖母は、静かに涙を流すのだった。

 

 出棺は、何人かで手分けして行われた。霊柩車に棺が入ると、私は、父の運転する車に乗った。その他の親族は、手配していたマイクロバスに乗った。火葬場は、民家や商店街のある場所を抜け、少し坂を登ったところにあった。ストーブが焚かれていたが、中はまだ冷えていた。私は、受付係を務めた。祖父は、小学校の先生を務め、その後私設の合唱団を立ち上げた。合唱団の名前は、町にゆかりのある名前がつけられていた。教え子や、近所の住人、遠い親戚、そして、合唱団のメンバーと、参列者は、ひっきりなしに訪れた。

 

予定時刻を回り、いよいよ祖父は、火葬炉へと運ばれてゆく。火葬炉は薄暗くて、無機質だった。ギーッと重い鉄扉が閉まる。闇の中へと消え、まもなく炉の作動音とともに、赤いランプが点灯し始めた。親族一同は、炉前室に戻り、水を取り替え、焼香をした。続いて、参列者も同じ所作を繰り返していく。読経は、合唱団のメンバーが取り行った。哀しく、祖父に寄り添うような合唱が部屋に響き渡った。

 

読経が終了すると、親戚一同は、畳のある広間へと向かう。この地域では、火葬が終了するまでの間、おにぎりや軽食を食べながら、故人をしのぶのが習わしであった。私は改めて、親族の多さに驚いた。ただ、ほとんどの人が自分や、あるいは祖父とどのような関係であるのか分からなかった。時おり、祖父の孫ということで声をかけられることがあったが、その顔と、母や祖母から教えられた名前が一致することは少なかった。私は、祖父の教え子であるという人物に出会った。彼は、祖父との思い出を、まるでつい先日経験したことのように詳細に語ってくれた。火葬はとどこおりなく終了し、祖父は遺骨となって、叔父さんの抱える骨箱の中に収まった。

 

私はマイクロバスに乗って、再び葬儀場へと向かった。姉は体調が芳しくなく、夫とともに父の運転する車に乗った。父の車は、中々葬儀場に現れなかった。はじめは、姉の調子を気遣いどこか薬局にでも寄ったのかと思っていたが、到着したのち聞いてみると、どうやら祖父母の住む実家の方に、無意識の内に寄ってしまったようだった。父は、
「写真屋の気持ちもなんとなく分かるな」
と言って、不思議そうな表情を浮かべてから笑うのだった。

 

1月5日

葬式の日。私は弔辞を読んだ。素っ気なく、堅苦しい葬儀場の空間を、祖父はあまり好まないだろうと思い、私は祖父がいつも作業していた応接間で、それを読んでいるかのようなものにした。弔辞を読むのは、これが3回目だった。1回目は、私が小学生の時、父方の祖父が亡くなった時。2回目は、私が学生の頃、父方の祖母が亡くなった時だった。弔辞が読まれている間、写真屋は、ひっきりなしにシャッターを切り続けていた。まるで、シャッターを切ることが彼自身をつなぎとめる唯一のものであるかのように。その姿は、前日までの騒動の渦中の人物とは到底思えなかった。

 

最後に、祖父が作曲した楽曲が合唱団によって歌われた。イントロを聴いただけで、森山と馬場目川の風景がありありと浮かび上がってきた。終盤にかけてのダイナミックに盛り上がりは、春夏秋冬それぞれで表情を変える森山の雄大な姿、やさしさのなかに力強さもある馬場目川のせせらぎ、そして歳月の流れまで映し出しているようで、聴くたびに豊かな気持ちになれるのだった。葬式は、無事に終わった。次の日私は再び、埼玉へと戻るのだった。

 

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