三浦日記

音楽ライターの三浦智文が、日記のようにつらつらと書いていくブログ

路地裏猫街道

カーテンの隙間から朝日が差し込んできていた。それだけでなくこの日は、外から猫の鳴き声も聴こえてきていた。私の暮らすアパートは、窓を開けるとすぐにちょっとした小道があった。アパートや住宅地の間をまっすぐ貫くようにのびる小道にはレンガが敷かれていて、小綺麗に整備されている。道の両脇には低木が植えられていて、その横ではチューリップやバンジーが咲いている。先ほどの声の主はそこで「朝食」を食べていた。一階に住む私は、同じ目線でその姿を見ることができた。黄土色と白毛色は陽光に照らされて、艶を纏っている。首輪を付けられていないのをみると、どうやら「野良猫」のようだが、虐げられている様子はその仕草から微塵も感じられず、窓から覗く私の方を一瞥するものの、警戒する様子もない。ありふれた銀色の平皿には、キャットフードがこんもり盛られていた。猫は時折、満足げな鳴き声を上げては、皿をかぶってしまうほどの勢いで貪りついている。

 

しばらくその光景を眺めていると、猫に「食事」を提供したと思われる老人がやってきた。その後ろにはまた別の猫がついてきていた。黒猫と三毛猫だった。
「今日もよく食べるな、お前さんは」
茶白猫を見てそうつぶやく老人の眼差しは、慈愛に満ちていた。彼は、平皿をもう一枚出しキャットフードをそこに盛る。すると黒猫と三毛猫は、すかさずそちらの皿に盛られたものを、我先に我先にと貪りつく。一体いつからだろう、ここの小道に猫が来るようになったのは。私は、老人に気づかれないようにそっとカーテンを閉めた。

 

明くる日の夕暮れ時、買い物帰りの私は小道で猫を見つけた。近づいていくと猫は、こちらの方をじっとみてから建物同士を隔てる石垣へ足早に走り去っていってしまった。道すがら、先日野良猫を世話していた老人に遭遇した。老人は、私の方に声をかけてきた。
「どうもこんばんは。4月とはいえ、まだ寒いですね」
私は初めてこの老人を見たかのような表情をしながら、
「そうですね、まだ寒いですね」
と、ぶっきらぼうに返答をした。
「お住まいはこの辺り? 最近、ここに引っ越してきまして」
「ああ、そうでしたか。まあ、この辺りです」
「私は猫が好きでね、こうして毎日餌をやりに来ているんですよ」
老人は、にこやかな表情を浮かべながらそう言った。それがあまりに屈託のないものだったので、思わず私はこう質問してしまった。
「猫、かわいいですか?」
「もちろん」
彼が微笑むたびに目元にはきれいな皺が作られていた。

 

老人はくる日もくる日も、猫に餌を与え続けた。私は朝、猫の甘ったるい鳴き声に起こされては、側からその姿をじっと見た。彼らの関係性を見ていると、小道の花壇に立てられている「野良猫に餌やり禁止」という看板もまったく気にならなかった。そもそも、我々はなぜ「野良猫」と呼ぶのだろうか。ある国では猫は、神の使いとして丁寧に扱われていて、猫の楽園のようになっているという。老若男女問わず、みな足を止めては猫に触れ合い、レストランに入ってきた猫に対しては、嫌な顔一つせず餌を分け与える。私はその国を舞台にした猫の映画を観たことがあった。一方で小道をゆく人は、餌をあげる老人に決まり悪そうに挨拶をしては、そそくさ彼から離れていってしまう。なんと冷たい目つきなのだろうか。国が違うだけで、こうも扱いが変わってしまうのか。私は知らず知らずのうちに、老人と猫たちに加担していることに気がついた。

 

8月のとても暑い日に近くの幼稚園の子どもたちが、列をなして小道を通ることがあった。子どもたちは、いつものように餌をあげている老人を見て、「あ、猫のお爺さんだ」と呼んでいた。「猫のお爺さん」という言葉の単純さと、底知れない朗らかさな呼び方に思わず私の口元は緩んだ。猫のお爺さんは、私に挨拶したときのような笑みを浮かべて子どもたちに「こんにちは」と返した。彼らは、直感的に思いついたことを次々に口にした。そのたびに老人は、優しく受け答えをする。それでも、その目線は常に猫の方に集中していた。子どもたちと老人の会話を断ち切るように、幼稚園の先生は「そろそろ行きますよ」と、よく通った声で催促をした。園児たちは「さよなら、猫のお爺さん」、「猫のお爺さん、またね」と、最後まで「猫のお爺さん」と呼び続けていた。

 

子どもはよく、純真で無垢だと言われる。でもそんなことはない。彼らの会話を聞いていると、あまり大人と変わらないのではないかと思ってしまった。彼らは何も知らないだけなのだ。大人が作り出した社会の仕組みにまだ、順応できていないだけなのだ。私はいつ大人になったのか、その瞬間というのは、果たしてあったのだろうか。自分は今でもあの子どもたちと大差はないのではないか。そんなことを逡巡しているうちに、老人は空になった皿を手に取り、窓の視界から消えていった。猫の姿はすでに見えなくなっていた。

 

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