前回の抜歯から約1か月。今回は右側の上下の歯を生贄に捧げる。仕事を早いところ切り上げ、歯医者へと向かう。歯医者は平日のためか、待ち時間はほとんどなかった。また、例の外科医が処置にあたった。度の強い丸眼鏡をかけ、髪をボサボサに伸ばしたステレオタイプな科学者のような外科医である。
「さて、今日は反対側ですね~」
反対側というのは、前回左側をやったから、今回は右側をやるということである。左側のときはガンガンと砕きながらやったせいか非常に腫れ、傷口の縫合を行ったが今回はどうか。まずは例によって歯茎に麻酔をかけていく。針の痛みで鈍い痛みが広がり、しばらくするとしびれが襲ってきた。麻酔が効いてきた証拠である。それから間髪を入れずに、キュイーンという、何か機械が高速回転する音が響き渡り、直後それが口内から奥歯めがけて入っていく。
まずは親知らずの右下を抜きにかかる。
「すみません、ちょっとお顔押さえますね~」
そう言って歯科助手は自分の顔を抑え、外科医は四方八方にぐりぐりと歯を動かしている。かなりの力が加わっているためか、ミシミシという鈍い音が頭蓋骨に響き渡る。体の中でとてつもないことが起こっているのにもかかわらず、それを痛みとして認識できないのは、流石は麻酔の効果であ……。ん⁈痛い⁈動かされていく親知らずは段々と痛みを帯びてきた。処置前に
「痛いときは左手を上げてくださいね~」
と言っていたが、自分のプライドが許さない。ところが――痛みは増していくばかりである。これが痛みの頂点ではないとするならば――知らず知らずのうちに左の手が上がっていることに気が付いた。
「ですよね~ここ、痛いですよね~神経の方に入っていっちゃってるんで」
なんと、見透かされていたのか。再度麻酔を追加したのか若干痛みが和らぐ。
「はい、もう終わりますからね~」
これは前回の施術の際に何度も聞いたフレーズであり、そこからなかなか終わらなかった。ところが、今回はいたってあっさりと、抜けた。続いて間髪を入れずに右上に取り掛かる。こちらも案外あっさりと抜けた。合計して15分ぐらいだっただろうか。前回よりも半分くらいの時間で終わった。
「これが抜けた歯ですよ~お持ち帰りしますか?」
私は迷わずはいと答えた。別に「呪詛ごっこ」をやるためではなく、純粋に久しぶりにそのように機会が訪れたことにワクワクしたのであった。前回はいずれも歯を砕いたため、それが叶わなかった。歯科助手が歯の形をしたケースに親知らずを入れ、それを渡してくれた。こうしてもらったのは小学生の時以来だろうか。
抜歯をしたせいかその日は、変な夢を見た。フロイド・メイウェザーと対戦する夢である。何人か相手がおり、順番に相手をしていく。広い牧場のような場所で、多くのギャラリーが試合会場をぐるりと囲んでいる。白人の男性が相手をしているのが見えた。メイウェザーは背丈は低いはずであるが、実際に近くで見るとすさまじいオーラがあり、リーチも長く非常に大きく見えた。男性は、背丈は180センチほどあり大柄である。髪の色は金髪で短め、ボクサーにしてはややスリムな体系のように思えた。男性が一発パンチをお見舞いする。メイウェザーはよろけるものの、すぐさまカウンターパンチを繰り出し、それがヒットする。勝負あり。自分の番は間もなくである――。そもそも、なぜこのイベントに参加したのか皆目見当もつかない。今日、ここで初めて自分は、誰かに殴られる――。といったところでハッと目が覚めた。どうやらメイウェザーには殴られなかったようである。代わりに昨日抜歯した親知らずがどんよりと痛む。心なしか身体全体の調子が悪かった。