記憶は薄れてゆくものだ。あの頃の記憶は、いつ失われてしまうかわからない。だからせめてもここに残しておきたい――。
2011年3月8日
公立高校の一般入試試験が行われる。会場の、A高校に向かうと、いるはずのNの姿が見当たらなかった。Nというのは、私の小学生以来の友人で、家も近かったためよく遊び、部活も同じ野球部であった。出欠確認のために来ていた先生から、彼が高熱を出し、今日の試験を受けられないことを聞いた。少しだけ動揺したが、あくまでも試験を受けるのは自分ということで、そこまで試験に影響はなかったように思われる。この年の試験の難易度は、かなり高いものであったが、国数英と、いたって無難に回答を進めた。数学に関しては、自分にとってかねてからの鬼門であり、ここの攻略が合格のカギを握っているといっても過言ではなかった。数学は、そこまで難しいとは思わなかった。いつもの模擬試験の方が難しいと思いながら設問を解いていった。一方、当時圧倒的な力を誇っていると勝手に自負をこいていた社会が難しかった。全く手ごたえがなかった。理科も、思ったほどの手ごたえがなかった。合格がいよいよ怪しくなってきた。
試験終了後、休む間もなく面接試験へと移る。休んでいる余裕もなかった。面接は、たいして差しさわりのないことをつらつらと述べたような気がする。まだ中学生の身分である、そんなとき機転が利くようなことを言えるはずもなかった。そういえば、学校で面接練習なるものをやったのを、思い出した。相手は既に推薦入試で合格した人間で、なにやら礼儀作法だの、話し方だのを色々といわれた気がする。そんなもん知ったことか、質問に答えられれば良いじゃないか。こっちは見てくれなんかじゃなく、学力で成り上がってやる――。無論これは心の声である、私もそこまで粗暴な人間ではない。
面接が終わり、試験の全日程が終了した。もぬけの殻である。母が迎えに来ていた。3月だというのにとても寒く、ぼた雪が降っていた。どうだった、ちゃんと解けた、などという、母の無邪気な質問が浴びせられる。手ごたえは全くない、間違いなく大丈夫ではなかった。果たして合格点に届いているだろうか、という不安が襲ってきて、うーんとだけ答える。車内にはたちまち、どんよりとした空気が漂った。
「合格できなかったら、M高校に行くの?」
と、母はさらに畳みかける。まあ、そうだろうねぇ、と他人事のように答える。M高校というのは、いわゆる滑り止めの私立高校で、A高校が受からなかった場合、この高校に入学することになっていた。入学金は既に納入済であった。入る入らないにかかわらず、である。なんと素晴らしいビジネスなのだろうか。
車は家へと向かっているのではなく、通っていた学習塾に自己採点に向かっていた。塾で、自己採点を行うことになっていたのだ。概ね予想通りの点数になっていて、いたって冷静に、ああ、これでは合格できないかもしれない、という気分になっていった。だが塾講師に、合格のボーダーラインについて聞くと驚愕した。模擬試験の時のボーダーラインよりも、40点ほど低いものであったのだ。それも数学の平均点がすこぶる低かった。救われた。これは、いけるのではないか。遠ざかり、かすんでいたA高校が再び見えてきた。M高校には行きたくない、M高校には行きたくない。某魔法物語の主人公が、組み分け帽子に対して述べた心境とまったく一緒であった。車内で待っている、母にそれを告げるとどんよりとした空気は一変し、安堵した空気になったのだった。
2011年3月9日
「卒業式の予行練習を行った」
この日の記憶はこれしか残っていない。中学校の記憶というのは、誰かに怒られたときや、何か恥ずかしいことをしたとき、あとは帰り道、友達と一緒に帰っている時ぐらいのものしか残っていないものである。特に、最後については大切にしておいた方が良いような気がしている。部活動を引退した後、私は、TとR君とよく帰った。Tというのは、幼稚園時代からの友人であり、クラスはおろか部活動も違っていたが、何かと仲良くしてもらった人物の一人である。R君は、小学校4年生のとき、野球部で知り合いそこから仲良くなった人物であった。この日も例によって、感傷に浸りながら帰ったのかもしれない。話を予行練習に戻すが、この予行練習の中でも忘れられないのが、その最中に起こった地震である。
当時の地震の記録について調べてみると、3月9日11時45分頃となっている。あれは午前中のことだったか、突然、突き上げてくるような揺れを感じた。誰かがステージに登壇して話している最中であったと記憶している。震度は3~4ぐらいであっただろうか。一瞬の揺れだったので、別段避難することもなく、予行練習はそのまま続行されたような気がする。あるいは、昼休憩間近だったために早めに切り上げたのかもしれないが、その後の記憶はほとんど残っていない。ただ確かなのは、当時誰一人としてその地震に気を掛けるものはいなかったということである。後になってこれが、東日本大震災の前触れの地震であったと言われていることを知って驚いた。入試も終わっていたので、学校は午前中で終了し、早々に帰路についたのだろう。母は仕事をしていたので、家にはだれもおらず、特にやることもなかったので私は自部屋で一人ダラダラとゲームでもしていたと記憶している。
2011年3月10日
中学校の卒業式当日である。私は一瞬だけセンチメンタルな気分になったが、特に泣くことはなかった。もう二度と会うことが出来ない人間がいるかもしれないのにもかかわらず、当時はそんなことを考えたこともなかった。あるいは思春期特有の、反発心みたいなものがあったのかもしれないが、はっきり断言できるのは、それ以上に入試の結果が早く知りたくてそわそわしていたということである。この日は卒業式にふさわしい、春の陽気であったと頭の片隅には記憶していたが、その当時の天気を調べてみると降雪であったと書いている。記憶というのは、こういうところから美化されていくのだろうか。卒業式の最中の記憶は、ない。野球部の連中や親しかった友人と写真を撮ったぐらいの記憶しか残っていない。誰々先生、お世話になりました、という気分は残念ながら生まれてこなかった。私にとっての恩師といえる存在は中学2年生のときに、別の学校に赴任してしまった。多感な中学時代、唯一尊敬できる先生であった。
この時分の写真を見てみると、非常に青い。熟していないいがぐりのようである。とがっていて、中身は何にも入っていない。そして受験勉強中も、部活をやっていたころと同じぐらい食べていたせいか、やけに太っているではないか。家系的・遺伝的にやせ型の人間が太る姿ほどみっともないものはない。言い方はおかしいかもしれないが、太っていて似合う人と似合わない人がいるが、私は間違いなく後者であった。その日の夕方から夜にかけて、私は当時所属していた野球部の打ち上げに参加した。子以上に、親同士がとても仲が良かった。同級生の親が経営するカラオケ屋で、打ち上げを行った。打ち上げは盛り上がり、私は一人浮かれて歌っていた。その家族はお好み焼き屋も併設していたが、そこで食べたのかあるいはバイキングのような店に行ったのかは定かではない。この辺については今度、野球部の友人と会ったときに聞いてみたい。
2011年3月11日
この日はずっと、家の中で過ごしていた。合格発表の3月12日は次の日であったが、自己採点の合格ラインがギリギリだったため、なんとも言えない中途半端な気分で過ごしていた。友達と遊ぼうという気にもならなかった。例によってこの日は平日で、家の中には誰一人としていない。私は自部屋でゲームに明け暮れていた。昼食はおそらく、冷凍食品のチャーハンでも食べたのだろう。午後も、ゲームを続けた。プレイステーションでプロ野球のゲームでもやっていたような気がする。突然、揺れが起こった。これまでに経験したことのない、とてつもない揺れであった。揺れは収まるどころか、指数関数的に激しくなっていき、揺れから10秒ほどでゲームの画面が消えた。停電である。にもかかわらず、私は何度もテレビの電源を押しては、ああ、なんでテレビ点かないんだよと思っていた。ゲームは人の心を蝕んでゆく。ゲームは毒である。憲法に明記して、子どもたちを拘束すべきである。揺れが収まらない中、ふらふらと歩きながら二階から一階に降り、ドアを開けた。電柱がぐらぐら揺れていて、電線が波打ち、ありとあらゆるものが軋む不快な音が響き渡っていた。体感的には2分ぐらい揺れただろうか、揺れが収まったので、家の中に戻る。
家の中の損害は奇跡的になかったが、停電のため、ありとあらゆる家電が機能していなかった。この日は寒い日であったが、ストーブも消えていた。私は余震に備えた。この揺れはただ事ではない。この時はまだ携帯電話を持っていなかったので、充電が残っていたWalkmanのラジオ機能を使用して情報を得ることにした。ラジオでは、地震についての情報が流れている。「大津波警報」という言葉を連呼している。初めて聞く響きだった。どうやら地震の震源は、岩手・福島のあたりということが判明した。秋田でもここまで揺れたのだから、福島や岩手は相当な被害を被っているのではないか、直感的にそのように感じていた。そうしているなか、30分後ぐらいにすぐ余震が来た。私はカメラの動画機能でそれを残した。
母が仕事から帰宅してきた。ひとまず私は安心した。母はスーパーでの買い物中に揺れが起こったそうである。幸いなことに会計を済ませた後だったようなので、そのまま帰宅できたという。母が持っている携帯電話のテレビ機能で、報道を見てみる。地震から1時間ほどが経過していただろうか。津波の映像が流れている。これは果たして現実なのだろうか。それ以上にこの時は、家の近くが海ではなくてよかったと安堵した。不謹慎かもしれないが、人間は窮地に陥った時というのは、自分に関わること以外というのは、どこまでも他人事になってしまうのかもしれない。とにかく自分のこと、あるいは家族のことしか見ることが出来なくなってしまうのである。その後も余震は幾度となく続いた。スピーカーにWalkmanを接続し、音楽を流した。私と母は、暗くなってゆく家の中でひたすらじっとしていることしかできなかった。
夕方過ぎ、父が帰宅した。リビングルームは暗く、懐中電灯をつけ、ロウソクを灯した。電化製品は使用できないので、カセットコンロを取り出してきて、テーブルで鍋を作った。キムチ鍋であった。揺らめく光の中、父と母と私の顔が照らされている。いつもはテレビをつけて夕食を食べていたが、この日は停電のせいで静まり返っている。部屋の中は具材がぐつぐつと煮える音だけが際立って聞こえていた。固く縮こまった豚こま肉と、くたくたになった白菜とネギをほおばる。汁が余ったので、冷凍していたご飯を入れ、雑炊にして食べた。この時の鍋ほど美味しかったものはない。何かを食べる、それも温かいものを食べられるということが、どれだけありがたいか初めて分かったような気がする。
幸いなことに、給湯器にはまだお湯が残っていたので、この日は温かいシャワーを浴びることが出来た。ドライヤーが使えなかったので、体だけ洗った。余震に備え、夜は自部屋のドアを開けておいた。全く落ち着かない夜だった。余震が来るたびに、またか、もうやめてくれと思った。だが、やがてそうも思わなくなってきた。これまでの人生の中で震度4を超える地震を経験したことはそれまで、ほとんどなかったが、一連の地震によって、ある意味では慣れが生じてきていたのかもしれない。
2011年3月12日
起床後、一階のリビングに降りる。依然として電気は復旧しておらず、部屋の中は寒いままだった。この日以降の食事についての記憶は残っていない。ゲームもパソコンもできなかったので、私は、小説を読んでいた。ハリーポッター・シリーズだったと思う。電気がつかなかったので、窓から差し込んでくる光を読書灯代わりにして読んだ。父親は市役所の職員だったので、災害対策本部のほうに駆り出されていた。試験の合格発表日であったが、延期の知らせが発表された。私は、結果が分からないふわふわした状態の中、もうしばらく過ごさなくてはならなかった――。