三浦日記

音楽ライターの日記のやうなもの

佳作になった傑作(マスターピース)——エレカシ全作レビューXXI『MASTERPIECE』

聴くに堪えないほどの苦痛――。かつて、24歳だった宮本浩次が『生活』でみせた、粗削りな音と、パッションに満ちた青い叫びからくる苦痛とは明らかに違うものがそこにはあった。2012年、世に出された『MASTERPIECE』の苦痛は、人生の折り返し地点を過ぎた衰えからくる、逃れられないサウンド(歌声)の変化に起因している。その1年8か月前にリリースされた前作『悪魔のささやき~そして心に火を灯す旅~』(以下、『悪魔のささやき』)と比べてみると、その歌声は甚く疲弊していることがわかる。また、後の2015年『RAINBOW』、2018年には『Easy Go』がリリースされているが、それらを聴いた後に改めて本作に立ち戻ってみてもやはり、その違いは歴然である。特に、この頃の宮本の高音域には張りがなく、特有の金属的な冷たい歌声は錆びつき始めてしまっている。そして、それが苦痛と感じられるまで昇華されてしまっているのは、錆に対してどこまでも抗おうとする姿勢にある。

 

宮本は自身の声に纏わりついている錆を何とかして取ろうと、必死にもがく。だが、それを上回るスピードで錆は進行してきており、残念ながら隠しきることは出来ていない。「ココロをノックしてくれ」は、その最たる内の一曲で、冒頭やサビの部分での高音域の擦れはあまりに悲痛であり、旋律が本来持つ美しさが阻害されてしまっているかのようであった。いわゆる、バラードに分類される「約束」や「大地のシンフォニー」に関しても、先に挙げた楽曲ほどではないものの、許容範囲以上のノイズが歌声にかかってしまったことで、曲自体が持つ本来のポテンシャルを十分に発揮できていないように思える。こうして楽曲を聴いていると、当時の宮本は、音楽を表現することに関して限界を迎えていたと思わざるを得ない。別段これは、作品のクオリティの良し悪しという意味合いではない。心・技・体でいえば、"体"の不完全さが、作品から滲み出てきてしまっているということなのだ。事実、本作品がリリースされた数ヶ月後、宮本が突発性難聴により活動休止を余儀なくされたことは、その要因の一つと言っても差し支えないだろう。

 

他方、ユニバーサルミュージックの移籍から通算4枚目となった本作は、心・技の部分に関しては成熟がみられた。エレファントカシマシの2000年代後半以降の、いわゆる"ユニバーサル期"より顕著にみられるようになった、何かを演じる、という側面。演じるというクッションを置くことで、自己と楽曲との間に距離を作りだす。この距離はキャリアを追うごとに、徐々にではあるが広がりをみせてきた。『STARTING OVER』では、荒井由実のカバー「翳りゆく部屋」が収録されたことが象徴しているように、演じることによって、これまでの彼らの作品でかなりのウェイトを占めていた"自己"を起点にした命題が、相対的に小さくなった。続く『昇れる太陽』では、ついには東京の人間なるものを演じる。東京出身者である宮本が、東京に住む人間を演じるという、一見トートロジーじみた言説ともとれてしまうが、少なくとも『東京の空』(1994)の頃の精神性とは異なっていることは確かである。作品に散りばめられた数々のオマージュは、"自己"の命題を相対的に小さくさせ、結果としてフィクションとしての東京を描くことが可能になった。そして、『悪魔のささやき』では、演じることで獲得した視野の広がりを持って、都会に混在するありとあらゆる宇宙を俯瞰的に切り取った。キャリア20年という月日を経て、エレファントカシマシはもはや東京という言葉を歌詞に使わずしても、東京がにじみ出てくるような境地に達したのであった。

 

本作は、前作までの演じる側面と、それによって獲得された俯瞰する側面のいわば折衷にあるといえる。誰かを演じるということもあれば、途端に東京のとある風景を構築していくこともある。それらの要素は互いに作用し合うことで、これまでの楽曲にあったトゲのようなものは打ち消されてゆく。ここでいうトゲというのは、作品全体を貫く強烈な個性であるが、それが擦り減らされた結果、作品は実に綺麗にまとまっている。歌詞にも迷いがない。無駄が削ぎ落とされ、普遍的な言葉が使われている。曲の構成に関しても決して気を衒うことなく、シンプルに伝えようしていることがサウンド面を含めて表れている。始めの方に書いたような、宮本の声の不調抜きすれば、これらは心・技の面の深化であると言い切っても良いだろう。他方、悪く言って仕舞えば、マンネリズムに片足を突っ込んでしまっているともいえる。ロック、バラード、そして、弾き語りに近い体裁の曲というある意味"ユニバーサル期"以降の、予定調和ともいえる楽曲の並び。世間によって、次第に確立されてきたエレファントカシマシは斯く在るべきだ、という"型"のようなもの。そこにすっぽり収まっているかのように、本作の楽曲が聴こえる場面が幾度かあったことは否めない。

 

一方、これを"愛すべきマンネリズム"として受け入れても良いのではないかと思わされたのも事実である。「東京からまんまで宇宙」、そして「ワインディングロード」の2曲はまさにそれを象徴している楽曲であるといえる。前者は、序盤の宮本の呟くような歌唱から、サビで切り替わった時の絶唱によるカタルシスが包み込む。歌詞は、毛筆で書いたように力強く伝わり、脳内でのラグが一切ないまま、楽曲のテンポと同じスピードで入り込んでくる。強弱のコントラストのバランスはどちらに偏ることもなければ、過剰さを持ってトゲが袋の中から突き破ってくるような逸脱もない。「ワインディングロード」も、彼らが2000年代後半、ユニバーサル期から構築してきた型の中で成立するような楽曲である。バンドの代表曲を最も売れた曲とするならば、エレファントカシマシの場合、「今宵の月のように」であることは否定のしようがないが、代表曲をバンドの"型"に最もはまった曲とするならば、この楽曲が最も相応しいように思える。

 

ここまで、概ね否定的な論調でレビューを進めてきたが、こうした筆者の態度は作品がリリースされ、ある程度の時間が経ち、即時的な情報が求められる必然性がなくなったことが多少なりとも関わっているのかもしれない。だが、それ以上に、後年エレファントカシマシが活動休止をし、再び動き始めた2013年以降の作品、そして宮本がソロ・アーティストとして活動を始めた2019年以降のブレイクスルー的な躍進を見せたということが大きい。つまり2012年当時の作品を今聴いた時、そうした眼差しにならざるを得ないということなのだ。もし宮本が病気を患うことなく、活動休止をしていない世界線であったなら――そして今もなお、活動を続けていたとしたら――こうした見方は到底できなかったはずであり、おそらくは『MASTERPIECE』に準じた、ある種のマンネリズムに陥ったような作品を作り続けることになっていたのかもしれない。そうなったとき、この作品は相対的に絶賛に値される作品となり、文字通り最高傑作(マスターピース)であり続ける——。現時点、本作が"マスターピース"になっていないエレファントカシマシを、筆者は大いに祝福したいと思う。

 

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Track Listing

01. 我が祈り
02. Darling
03. 大地のシンフォニー
04. 東京からまんまで宇宙
05. 約束
06. ココロをノックしてくれ
07. 穴があったら入いりたい
08. 七色の虹の橋
09. ワインディングロード
10. 世界伝統のマスター馬鹿
11. 飛べない俺