この作品に存在しているのはいわゆるバンドサウンドという、いくつかの楽器の組み合わせよってもたらされる音の快楽だけではない。たとえそこに、歌詞という意味付けがあったとしても(日本語を母語とする者なら尚更)、それが音と作用し合うことによって生じる機微だけでは到底説明しきれないほどの広がりをはらんでいる。時間や空間に秩序を持って世に存在する万物としての、宇宙。
『悪魔のささやき~そして、心に火を灯す旅~』は、春夏秋冬、朝昼晩、月、太陽、空、雨、風、ビル、団地、部屋——という、マクロからミクロありとあらゆるものが切り取られている。それらは、レコードの溝に空気の振動として刻み込まれるかのように楽曲に内包されていて、ひとたび楽曲を再生すると、肉声と機械的な電気信号にまとわりついた森羅万象が、鮮明に浮かび上がってくるのであった。
1曲目「moonlight magic」。冒頭かき鳴らされるアコースティックギターの一音一音は、夜の帳を下ろし、目の前は青と黒のグラデーションで満ち溢れていく。夜に差し掛かったばかりの、まさしくジャケット写真を飾る空と同じ色だ。そこに宮本浩次の歌声が淡々と乗せられる。金属のような光沢と冷たさを持った歌声は、ギターストロークが作り出す夜の温度に自然に馴染んでゆく。また、音域の最良のスポット歌い上げる声にはビブラートではない、絶妙な"揺れ"のようなものが含まれている。文節の合間や語尾が若干上ずるような揺れは余韻を残し、浮かんできた風景に、人々の生活が息づいているという実感を与える。
曲が進むにつれ、構築されていくサウンドに呼応するように、歌声は先程までの音域から逸脱し、今度は掠れを内包した高音域へと変化していく。まるで、突風が吹いたかのような力強さは、先ほどまでに作り上げられた美しい夜の帳の香りをほんの一瞬ばかりさらっていく。心地の良いものではないが、普遍的であり、時に必要不可欠となる自然の脅威。彼の歌声はそれさえ本能的に表現しているかのようだ。楽曲によって満たされた"夜"はやがて、揺れを含んだ宮本の声の残滓(ざんし)とともに消えゆくのだった。
前曲の余韻そのまま「脱コミュニケーション」へと移り変わる。先ほどから、というよりも今作の宮本の叫びには、特に掠れを伴ったノイズが含まれている。時に顔をしかめたくなる程の刺激を持っているにも関わらず、バンドサウンドが組み上げてきた建物を壊すようなことは決してしない。まるで雨が骨組みの裂け目に侵食し、赤銅色の錆を作り出すかのように。あるいはツタの蔓が建物に絡まりながら覆っていくかのように、建物に対して一定のストレスのようなものを与えるにとどまる。楽曲は、低音域の呟きから突然ギアを上げた高音域の叫びが何度も往来していく。平穏で何気ない日常の風景から、突発的に非日常的な出来事が襲いかかり、再び日常へと戻る——そんな自然の理まで表現されてしまっているかのようだ。この世界は破壊と構築、あるいは始まりと終わりが連続していることで成立し、とどまることなく動き続けてきた。この楽曲からは、そうしたマクロな視点でのダイナミズムを感じられるのであった。
続く「明日への記憶」、エレキギターの弾き語りからまもなくストリングスを含めたバンドアンサンブルに移行した途端、目の前には都会の喧騒が広がっていく——。陽炎立つアスファルト、辺りを見回せば、無数のビルがそびえ立っていて、人々は駅に向かってせわしなく歩いている。しばらくすると場所は移り、今度は電車に乗っていて、窓の外には先ほどまで見上げていたビル群が一定のリズムで流れる景色へと変わる。突然、雲の合間から陽の光がさし、鳥がビルの合間を縫うように飛ぶのが見えた。やがて電車を降り自宅へと帰る。玄関を開けると、部屋は真っ暗で誰もいない。仕方なくベッドに寝転び、悶々たる夜を明かす。そこでは時計の針の音だけが規則的に鳴り続けていた——。楽曲から聴こえてくる言葉は、どこまでもシンプルであるが、都会で生活する者たちの真髄を突いている。そして何よりも重要なのは、宮本の土着的な歌声だ。無機質で人々のカオスが混在した東京の音そのものである。まさに、現代の都会にまみれた"花鳥風月"が表出した瞬間であった。
「九月の雨」は、じっとりと湿った空気までも絡み付いているかのようである。作中においては、いわば小休止であり、序盤の3曲で上昇していった気温がここで一気にクールダウンさせてゆく。
中盤、「旅」で、再び世界は温度を帯びながら動き始めた。ローテンポな導入部分から一転、楽曲の終盤に見られる疾走感は、徒歩の視界の広がりから、目まぐるしく変わりゆく風景を思い起こさせる。電車に揺られている最中かもしれないし、遠い街へと向かって車を走らせているところかもしれない。いずれにせよこうした展開は、何らかの乗り物を通して見た世界であり、タイトルの通り"旅"をしている感覚がある。あるいはこのテンポの変化は、人生を表しているようでもある。過ぎゆく日々はやがてルーティン化し新鮮味を失ってゆく。幼い頃はあんなにも長かった一日は今ではあっという間に過ぎ去り、気がつけばまた一つ歳を重ねている。一瞬は永遠——人生における最上の一瞬というのは永遠である。それを追い求め、心に再び火を灯していく"旅"。身体性を伴った旅と、精神的な意味での旅。宮本は、この両者をあくまでも軽やかに表現する。
「彼女は買い物の帰り道」〜「赤き空よ!」までの楽曲は、夕暮れ時の景色を誘発させる。まるで歌声を含めたバンドを構成する楽器の一つ一つが、風景の一部として機能しているかのようだ。団地は夕日でオレンジ色に染められ、どこからか夕餉(ゆうげ)の匂いがしている。人々が家路に急いでいる様子、踏切の音、電線に止まっているカラスの鳴き声——。それは、何かの音に似せたものを表現する音響効果としてではなく、それぞれの楽曲を通じて誘発される感覚であった。
そこからは、宮本自身のバックグラウンドを感じざるを得ない。東京都赤羽出身、そして団地で生まれ育った頃の記憶や感覚。そのころに経験した出来事がDNAレベルでインプットされ、現代のそれに重ねる。これまでも宮本は、東京や団地を舞台にした作品を数多く出してきたが、今作にはそう言ったものを連想させる言葉は使われていない。にもかかわらず、表出してくるものは都会から少し外れた場所の宇宙である。ここに、本作で宮本の達した境地が見て取れる。
「夜の道」で途端に夜の静寂が訪れた。しかしながらそこに前曲までの分断はない。あくまでも地続きであり、先ほどまでの景色がそのまま夜になったという時間的な繋がりを持つ。朝から昼、日没、月が浮かぶ頃。そして月が薄れ、陽が昇ってくる頃。一日はふたたび始まり、また終わる。ここまで聴いていると、この作品はこうした時間経過の連続が大きなテーマになっていることに気がつく。宮本は本作を通じて、その瞬間を切り取る三次元的な風景だけではなく、時間という四次元的なものまで表現しているのだ。
このテーマは、「朝」〜「悪魔メフィスト」に続く流れでも如実に感じられる。「朝」、作品中で初めて実際の生活で聴こえてくる音が使用される。鳥のさえずりがどこからともなく聞こえてきて、その音は重なり合いながら大きさを増していく。"朝"を象徴する音。突然大きな雷鳴が響き渡り、その直後、雨音が続く。昼になったのか、あるいは陽が暮れて夜になったのか、それはどちらでも構わない。ここでは時間が流れそのものが明示されるだけで構わない。
「悪魔メフィスト」は、そうした生活の音響から地続きに始まる。無論、そこに違和感はない。というのも、例によってこの楽曲にも、"都会の宇宙"が刻印されてしまっているからだ。だがその佇まいというのは、それまでのものとは違っている。まずは、恐ろしいという感情が一番先に沸き立ってくる。楽曲は日常の一幕を切り取り、それが時間的な連続性を持って都会の空間というものを表しているに過ぎない。だが、恐ろしい。たとえばホラー映画は人々に、瞬発的な恐怖を誘発させる。何らかの衝撃的な出来事が目の前で起こり、人々は日常との乖離に"恐ろしさなるもの"を見る。確かにこの楽曲には、のしかかってくるような重たいサウンドと、つんざく様な叫びが随所に盛り込まれている。ただ、それはいわばホラー映画的な怖さであって、せいぜい鼓膜を激しく揺らす程度の要素でしかない。この楽曲の恐ろしさは、人間の最も根源的な死の恐怖を実感させるところにあるのだ。それも直接的に死を謳うのではない、切実な生の表現に徹したことで生じた逆説的な死なのである。
『悪魔のささやき~そして、心に火を灯す旅~』では、日常に存在している膨大な情報の一部が楽曲のリズムとなって切り取られる。宮本はかつて、"無限ビート"という言葉について、語っていたことがある。
8ビートっていうのは、人間が表せる形なのであって、本来ならばそれ以上の無限ビートっていうのが流れてる。その一部分を僕らは、音楽を通じて表現しているに過ぎない、っていう。例えば、華厳の滝でもナイアガラの滝でも何でもいいんですけど、実物のものよりも、絵画にされたり歌にされたりすることで、「今宵の月のように」をみんな親しんで聴いてくれる。それは、実際の月がより美しく見える、ということでもあるのかもしれない。......要するに自分のやってる音楽は、無限ビートの一部分。
彼は世界を切り取り、音にして宇宙を表現する。そこには日常に潜んでいるものを探し出して、だとか、誰も気が付かないようなものを、という視点は存在しない。むしろ、誰もが当たり前のように目にしているがゆえに、見向きもしないものにスポットを当て、高らかに歌い上げる。あくまで素直にシンプルに。創造された宇宙は、視聴機器から生み出される空気の振動となって脳内、あるいは目の前にある風景と重なり合ってゆく。するとそれに呼応するように、風景は四次元的な広がりを見せ、途端に生気を帯び躍動し始める。それは、時に涙を流すほど美しく鮮やかで、また時には人生に絶望するほど悲しく切ないものかもしれない。空気の振動が、宇宙になる瞬間(とき)——。
Track Listing
01. moonlight magic
02. 脱コミュニケーション
03. 明日への記憶
04. 九月の雨
05. 旅
06. 彼女は買い物の帰り道
07. 歩く男
08. いつか見た夢を
09. 赤き空よ!
10. 夜の道
11. 幸せよ、この指にとまれ
12. 朝
13. 悪魔メフィスト