三浦日記

音楽ライターの日記のようなもの

「歴史」は敗北の産物である (前編)—エレ歌詞論考VI

エレファントカシマシの「歴史」は、2004年にリリースされた『扉』に収録されている。ドキュメンタリー映像の『扉の向こう』では、その制作風景が収録されているが、この曲の"歌入れ"はレコーディングの最後の最後まで残ったということで、歌詞に関して相当な苦悩がうかがえた。今回はそんな「歴史」について考察をしていきたい。

 

まずは、そのテーマについて。この楽曲を内包している大きなテーマといえば"森鴎外"という作家である。一番から三番では森鴎外の官僚時代から、文筆活動に至るまでの生涯を描き、4番では彼の生涯から見えてきた"人生の哲学"について、

男の生涯にとって死に様こそが生き様だ 

と結ぶ。エレファントカシマシといえば、具体的なものをそのまま具体的なものとして落とし込むことは少ない。特に人名に関しては、ほとんどといっていいくらい使用することはなかった。だが、「歴史」ではそんな彼らの作法(無意識的なのであろうが)にそぐわず、堂々と森鴎外について歌っている。

 

登場する人物だけでなく、その視点についても言及したい。というのも、おおむね一人称視点(俺・私)、あるいは二人称視点(あなた・おまえ)で描かれることが多いエレファントカシマシの詞であるが、この楽曲においては

小説家 森鴎外が 俄然輝きを増す

鴎外の姿はやけに穏やかだった。

といった具合に、とことん三人称視点で描かれているのだ。この"具体性"と"三人称視点で描かれた"という点において、「歴史」は彼らの作品の中でも異質であるように思える。

 

ここで、"共感"の話へと移る。その楽曲を聴いたことで、何らかの感情が揺り動かされ、個々の思想に変化が与えられる際というのは、少なからずこの"共感"が起因している。それはボーカリストの口から発せられるメッセージかもしれない、あるいは楽曲を構成するサウンドかもしれない。いずれにせよ、自分の持つ感性の領域が侵犯される、つまりは共感をしてしまうことで(場合によっては受動的に)、次の段階であるこの曲が好きだとか、嫌いだとかいう感情に至るのだ。

 

さて、エレファントカシマシの聴き手を"共感"させる要素であるが、まずは抽象性と具体性のバランス感覚の良さが挙げられる。もっといえば、誰もが知っているようなモチーフや、わかりやすい言葉を散りばめる一方で、固有名詞にまではその領域を広げることはしないということだ。たとえば、"◯◯の桜が◯◯町を彩る春には"とするのではなく、〈桜が町彩る季節になると いつも〉(「桜の花、舞い上がる道を」より)とするといった具合である。そうすることで、聴き手側に内在している情景や、イメージを思い浮かべることを促すのだ。

 

また、自己への埋没、これも楽曲に対する"共感"をもたらす要素の一つに挙げられる。このバンドでいえば、宮本浩次という人間の自我の埋没。上から諭すような啓蒙的なものではなく、あくまでも自らを吐露するようにしながら、一人称視点で描いてゆく。そうすることによって、聴き手もまた自己を楽曲に投影することができるのである。

 

抽象性と具体性のバランスと、自己への埋没。それらが、エレファントカシマシの"共感性"を構築しているとすれば、「歴史」はそれをしにくいといえるのではないだろうか。森鴎外という一人の男の人生が、三人称という俯瞰的な視点に立って描かれる——。先ほど、この楽曲を歌詞の内容的な目線で見た場合、"異質"であると書いたが、それをもっと砕いていえば、"共感のしにくさ"、あるいは自己の感性の領域が全く侵犯されない、"平穏無事な状態"であるとも言えるのだ。

 

「歴史」は、バイオグラフィー的な評価をすれば、"37歳宮本浩次の人生の混沌が、ストレートに表された楽曲"だ。しかしながら、そうした作者の背景を全く抜きにして、曲(歌詞)だけにフォーカスを当ててみたら果たしてどうであるか。今回の試みは、後編へと続きます。

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