三浦日記

音楽ライターの日記のようなもの

「歴史」は敗北の産物である (後編)—エレ歌詞論考VI

前回は、「歴史」の歌詞の内容的な部分に触れた。抽象性と具体性の天秤が"森鴎外の人生"をテーマに据えたことで具体性の方に傾き、その視点は三人称で貫かれたことで俯瞰的なものになっていた。彼らの共感性が抽象と具体とのバランス感覚の良さと、私小説的な自己の接近によってもたらされるとすれば、この楽曲においてはそれらの要素が希薄であるということであった。 

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後半部分では、歌詞の"内容"ではなく、この楽曲の持つ"発語"的な部分について触れていく。楽曲という体裁を成す以上、内容だけではなく、音と言葉の親和性やその響きに関する言及は避けては通れない。筆者が「歴史」を聴いて感じたのは、音と言葉との間に凹凸があるということだ。この凹凸は、楽曲にアクセントであったり、強調させる際にメリットとなる一方で、メロディーや音階が持つ響きを殺してしまう可能性を持つともいえるが、筆者はどうも後者の方に感じてしまった。Bメロ(あるいはサビの前半ともいえる)部分の、

小説家森鴎外が俄然輝きを増す。

は、その例の一つとして挙げてみたい。まずはこの部分を、実際に宮本が歌っている時のような感じで忠実に言葉にしてみると、

しょおせつうか(小説家)
もりおおがいが(森鴎外が)
がぜんんん(俄然)
かがやきをます(輝きを増す)

という風になる。〈俄然〉という部分は、"ん"を3つ続けているが、これは宮本がそれぞれ一音節で発音していることを強調するためである。太字については、いずれ言及するポイントを意味している。

 

まずは、〈小説家〉という部分であるが、"小説家(shōsetsu ka)"という話し言葉で発せられる場合の音の響きが、ここでは間延びしながらやや歪曲されたことで、引っ掛かりを感じる原因になっているように思える。特に、太字にした部分はそれが顕著である。それに比べ、〈輝きを増す〉の部分はそうした話し言葉との齟齬がなかったため、ここでは言及を省略する(無論、太字にもしていないのもそのためである)。

 

ここで、2003年の〈ROCK IN JAPAN FESTIVAL〉で、この曲が披露されたときのバージョンについて考えてみたい。いわゆる、"歴史前夜"と呼ばれるこのバージョンは、まだ歌詞の部分が未完成で、宮本は極めて即興的に音を入れ込んでいた。それを聴いてから完成版を聴くと、むしろ未完成版の方で既に、十分な力があるように感じてしまうのだった。というのも、確かに内容的な部分は不十分かもしれないが、今回のテーマである発語的な部分は、非常にスムーズになったことでメロディーや宮本の持つ歌声の響きが際立って聴こえてきたためである。

 

さて、先ほど載せた完成版の方の歌詞が、"歴史前夜"ではどのように歌われていたか。出来うる限り忠実に音に起こしてみると、以下のようになる(ちなみに動画の該当箇所は、02:38〜)。

youtu.be

レミ シーイイ ロゥ【小説家】
ウェ テュ シーイイ ロゥ【森鴎外が】
レ リ シ イイ【俄然】
ラス テ ヴ レ イ ヴ ロゥ【輝きを増す】 

 そしてそれを、先ほどの忠実な音の歌詞と対応させてみると、

レミ(しょお) / シーイイ(せつう) / ロゥ(か)【小説家】
ウェテュ(もり) /シーイイ(おうがい) / ロゥ(が)【森鴎外が】
レ(が) / リ(ぜ) / () / () / ()【俄然】
ラス(か) / テ(が) / ヴ(や) / レ(き) / イ(を) / ヴ(ま) / ロゥ(す)【輝きを増す】 

となる。なんだか呪文のようになってしまったが、あることに気がつく。太字で示した部分に注目してみると、構成されている音節の数はさることながら、使われている音節のバリエーションが、圧倒的に少ないということだ。

 

特に、〈森鴎外が〉の部分は、"シ"と"イ"の二つで構成されていて、もっと言えば、"おうがい"の"うがい"の部分は"イ"だけである。そうなったことで楽曲は、単語自体の持つリズムに支配されることなく、開放感さえ持っている。おそらくこの部分は、"歴史前夜"的な音の入れ方をした場合、"歴史(れきし)"という単語の方がよりスムーズであり、メロディーとの親和性が高いといえるはずだ。

 

事実、完成版の「歴史」の後半部分のBメロは、

歴史SONG 歴史SONG 

となっていて、"歴史前夜"との近似性はさることながら、その響き方の広がりは当該部分と比べて歴然である。ちなみに、〈輝きを増す〉に関しては、先ほど発話する場合と大きな齟齬がないと書いたが、改めて"歴史前夜"と比較してみても、同数の音節とバリエーションになってるために、さほど違和感を感じないと考えられる。もっと言えば、この部分は言葉がメロディーを支配していない状態にある、ということである。

 
最後に〈俄然〉についてであるが、"歴史前夜"ではイ(i)が連続しているのに対し、完成版では、"ん(n)"で終わっている。この場合の"ん"の発音は、「ん?」というような疑問形で用いられるような、いわゆる口蓋垂鼻音(単語で例を挙げるとゴメ、ゴハ、スミマセ等)である。この音は、実際に発音してみるとわかるように、鼻にだけ息を流すことで鼻で響くような音になるはずだ。それが、3音節連続することで(がぜんんん)、この部分は音の響きと相まって窮屈に、こもりがちに聴こえてしまうのだ。

 

一方、"歴史前夜"では、レリシイイ(がぜんんん)と、母音が3音節連続している(シ(sh+i)イ(i)イ(i))。鼻だけに息を流す"ん"に比べ、"い"は口からも息が出す発音のために、こちらのバージョンは聴く者に開放感を与える。さらに、レ(re)リ(ri)シ(shi)は、いずれも*1前舌母音に分類されるために、その親和性の高さも相まって流れるような印象をもたらしているのだ。この比較を踏まえると「歴史」の該当箇所では、一つの音を独立した拍として用いる日本語の性質をうまく生かしきれていないようにも思えてしまうのであった。

 

今回の指摘したのは歌詞の一部分に過ぎないが、こうした要素が連続的に重なったことで、この楽曲に凹凸が生じてしまっているように思える。エレファントカシマシの歌詞の魅力の一つは、その内容はさることながら、あらゆる音の要素(楽器・音階・旋律・歌声等)と混ざり合ったときの響きの美しさにあると筆者は考える。前々段落の最後の方で、〈輝きを増す〉の部分に触れたが、こちらの連続性で積み重ねられた歌詞の方こそ、音の響きの美しさを生み出すということなのだ。

 

つまり、言葉自体が持っているリズムがメロディーや音階を掌握するのではなく、それらはあくまでメロディーや音階が持つ響きを阻害しないように入り込んでいくのである。さらに、それによってもたらされた音と歌詞の親和性の高さは、楽曲に対する脊髄反射的なスピード感を持った理解にもつながる。その意味で「歴史」は、言葉の方が支配的であり、結果として"エレカシ的ストレートさ"までもが失われているように思えるのであった。

 

Special Thanks to Tomoya Otani. 

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*1:舌全体が口腔の前部に出されて発音される母音。舌はこの時に硬口蓋にむかって盛り上がるため、硬口蓋母音といわれることがある。英語の〔i〕〔e〕〔ε〕など。