三浦日記

音楽ライターの日記のようなもの

「友達がいるのさ」の冒頭部分の描写について—エレ歌詞論考V

東京中の電気を消して夜空を見上げてえな

エレファントカシマシの『風』(2004)に収録されている「友達がいるのさ」。この楽曲は、なんといっても先に載せた冒頭部分が強烈な印象を放っている。聴くものを一瞬にして惹き込んでいく魔力を持ったようなフレーズだ。今回は、その描写について考えていきたい。

 

まずは、該当部分を文節で区切ってみることにする。

東京中の / 電気を / 消して / 夜空を / 見上げてえな

東京という地名、電気を消すという行為、そして夜空を見上げる行為。これらはなんら現実的な場面で使われる言葉である。東京は、場所や所在を示すときに使われる名詞であると同時に、一つのアイコンのような体裁を持つ。電気を消すことに関しては日常的な、ある意味無意識的に行われるルーティンのようなものに近い。そして、夜空を見上げるということも人間的、あるいは文化的な行いの一つである。ただ、それらが組み合わさるとたちまち、非現実的なものへと変化する。東京中の電気を消して、夜空を見上げる——。

 

そして、そのバランス感覚は非常に良い。東京中の電気を消す、などということは現実的には実現不可能なことであるが、想像することはできる。その時の状況というのは、かなり俯瞰的な視点に立って見ている状況を想起させる。いうならば、東京の景色が一望できるビルの屋上に立っているような感じだ。あるいは、明かりひとつない渋谷のスクランブル交差点のど真ん中に立って、満天の星空を見上げている状況であるかもしれない。少なくとも、一軒一軒の電気の灯りが消え、そこに住む人間の営みが遮断されてしまうような、現実的な視点ではない。無論、それによって街ゆく人々のパニックが引き起こされることもない。あくまで東京の灯りを構成する一部として、そして喧騒からシャットアウトされ、暗闇の建物と星空と自分のほかは何もないという、ある種のファンタジックさを纏ったものとして見えているはずなのである。

 

街の明かりに照らされた東京は、夜中になっても明るい。人々は絶えず行き交い、広告やネオンサインは眩しいくらいに明るく、足元を照らす電灯さえも、どこか目立ちたがっているようである。東京には、ほんとうの空は見えない。なぜなら地上が明るすぎて、夜空はどんよりけむってしまっているからだ。そんな東京の電気が瞬く間に消され、しいんと静まり返る。そして、上を見上げればそれまで見えていなかった星の明るさや、月が輝いているのが露わになってくるのだ。

 

詩人の高村光太郎が、妻の智恵子に捧げた詩集『智恵子抄』に収録されている「あどけない日々」にはこうある。

智恵子には東京に空が無いといふ
ほんとの空が見たいといふ
(中略)
智恵子は遠くを見ながらいふ
阿多多羅山の山の上に
毎日出ている青い空が
智恵子のほんとの空だといふ 

ほんとの空は、東京には無い。そういって智恵子は東京から遠く離れたを見て、阿多多羅山の山の上に毎日出ている青い空を想った。東京にいながら、ほんとの空のことを想う。そこには、距離的な要素がもたらす郷愁めいたニュアンスが感じられた。

 

では、「友達がいるのさ」はどうか。この曲もいわば、"ほんとの空"を獲得する試みである。日常では見えなかった夜空を、東京中の明かりを消すことで見ようとしている。ただ、「あどけない話」と異なるのは、それがすべて東京で完結しているということだ。そこから郷愁は感じられないし、そもそも実現不可能な行為によって、である。しかしながら先に書いたような、言葉の組み合わせやバランス感覚によって、その獲得を、あたかも現実的なものとして鮮明に夢想することは可能だ。その意味でこの冒頭は、現実の世界と夢想している感覚が入り混じった"白日夢"のような美しさをもった部分と言えるのではないだろうか。

 

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