三浦日記

音楽ライターの日記のようなもの

「so many people」の情景描写について―エレ歌詞論考II

高速道路 朝日を浴びて ダイナミックな町は

引用したのは、エレファントカシマシ「so many people」のサビの一節。他のサビでは〈ソーメニーピープル〉から始まっている中、ここだけは〈高速道路〉から始まり、楽曲で唯一といってもいい情景描写へと続いている。この異質さと唐突さ。そしてなにより、一度聴いただけで、その情景がパーっと脳内に浮かび上がってくるような説得力は一体どこからきているのか。そんなわけで今回この企画では、この一節のみにフォーカスをあてて書いてみることにしたい。

 

まずこの部分で注目しておきたいのは、"わたし"や"オレ"、"あなた"などの主体が存在しないということだ。そのためこの歌詞を、正確無比に英訳することは不可能だろう。なぜならば、英語にはいかなる分であっても必ず、主体となるものが必要だからだ。強引にも英訳調にするならば、"I'm at the highway…(俺は高速道路にいて…)"となるが、原文の〈高速道路〉一言だけで、運転しているニュアンスまで表現させるような簡潔さからは程遠い。そして、お気づきの方もおられるかもしれないが、こちらの英訳的な文にした場合その視点は、地上ではなく上からになっているように見えないだろうか。もっと言えば、俺という一人の人間が車を運転している様子を、上空(傍)から眺めている静止画のような印象である。

 

原文の歌詞に話を戻すが、こちらの方も当然ながら〈高速道路〉単体で観ただけでは、運転しているというニュアンスを与えることはできない。そこでカギとなってくるのは、〈朝日を浴びて〉という部分だ。ここで、朝日が"照らして"と、行為的(俗に言う"する")な表現ではなく、状態的(俗に言う"ある")な"浴びて"、という表現にしたことによって、高速道路"を"みる視点ではなく、高速道路"から"見る視点へと誘導させる。つまり、この状態的な"浴びて"という言葉を高速道路の直後に据えたことによって、まず高速道路で車を運転している人間が、朝日を浴びているような情景になる。そしてそれは、傍からではなく聴き手の方も、曲中の主人公なる人間と同じ地上(車の車窓)から追体験しているような、動画のような視点になっているのである。

 

地上に聴き手の視点をもたらした効果は、続く〈ダイナミックな町〉にもつながっていく。高速道路で朝日を浴びながら車を走らせていると、周りの町の風景も同様に朝日を浴びてキラキラと輝き始める——。先ほど、〈朝日を浴びて〉という言葉は〈高速道路〉にかかっている(修飾している)という風に書いたが、地上視点への誘導によって、〈朝日を浴びて〉は〈ダイナミックな町〉にもかかっているということなのである。文章にすると「(車窓の)高速道路は朝日を浴びて。そして、朝日を浴びて、ダイナミックになった町は…」となる。このように解釈をすると、"時間の経過"のようなものが生まれることがお分かりいただけないだろうか。動画的というのは、この"時間の経過"という意味合いでもあるのだ。

 

この24文字には、疾走感がある。〈高速道路〉という名詞だけがポーンと投げかけられながらも、〈朝日を浴びて〉という、状態を簡潔に表した一文を直後に入れ、そして〈ダイナミックな町〉という抽象的ながらも直前を引き立たせた展開をみせていく。その語感が持つものもあると思うが、やはり先に述べたような、動画的な視点の動き、そして時間の経過がかなり大きくかかわっているように思える(ここでは書いていないが、"朝日"というものが、"早く過ぎ去ってしまうもの"の象徴という要因もあるのかもしれない)。というわけで、やや疾走感をもって書いてしまったが、この辺で終えることにしたい。

 

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