三浦日記

音楽ライターの三浦智文が、日記のようにつらつらと書いていくブログ

共感ではなく、没入―エレカシ全作レビューXIV『俺の道』

エレファントカシマシ、14枚目のアルバム『俺の道』。そのタイトルが示しているように、今作では歌い手、宮本浩次自身に向けられたようなメッセージが並べられている。一人称視点、オレという言葉は、これでもかというほどに吐き出され、作品の骨組みのような力強さがある。収録されている曲は、いずれも華美なイントロやアウトロ、ストリングスなどのアレンジは一切排され、シンプルな構成。無論、A・Bメロディーとサビの境界は明確には感じられない。それは、システマティックで、型にはまった日本的な曲作りからいったん身を置き、己の本能に従ったまま出来上がったかのようでもある。

 

潰れ、ノイズを含みながらも、その端々は鋭くとがっているギター、音が抜けきらずに、ボディーブローを受けたように体の芯にとどまり続けるようなドラム。そして、音と音の隙間をビリビリと痺れさせるように繋げていくベース。そんなバンド・サウンドには、当時の宮本のざらつき霞んだ歌声が、力まかせに乗せられる。全体的なサウンドは決して整っているとは言うことはできないが、この"ガレージ感"のようなものによって、作者自身の"人間的な表現"を、より一層生々しく際立たせているのである。

 

今作を、一言で表すとするならば、"諦念"、だと思う。ここで言う諦念は、衰え行く体に対するものというよりは、思想的なものに対する諦念である。そこに至るまでの過程はまず、自己の追求から始まる。ここまでは、5作目『エレファントカシマシ5』(1992)までの彼らと何ら変わらない。異なっているのは、5作目までは"自己意識"や"自己認識"が内部に閉じたままであったというところだ。往々にして人間は、自己の内部に沈潜し、自分とは何か、生きる指針を求めようとする。

 

しかしながら、そこには限界があった。哲学者、上田閑照の言葉に、

ほとんどの場合、人間に出会って人間に目覚めます。これが本当の人間だと感じられ思われる人間に出会って、その人に接して、その人から人間であることを学びつつ、人間として養われてゆきます。昔から『或る人に親炙する』という言葉がある所以です。

というのがある。つまり、他者に開いた自覚によって自己が培われるということなのである。ここでは人間とされているが、それはモノでも同様に言えると思う。圧倒的なものの存在、昔の偉大なる人間の存在に対する自覚。古墳の凄まじい迫力に圧倒されて生まれた「生命賛歌」、汚染された河川と対峙し、そこに力と勢いを見出した「どこへ?」は、まさにそんな他者(モノ)に開いた自覚であるといえるだろう。また、「勉強オレ」には〈恋愛魂・玉砕精神・夢・愛・歓喜・人生... 魅惑的かつ文学的 されど観察 距離をおいて哲学 オレ〉とあるが、ここでは"魅惑的かつ文学的"なものに自覚的になりながらも、没入しすぎることなく哲学していく自己が表現されている。つまり、こうした段階を経て、自己が培われてゆくのである。ただ、同時にそれは、自分という者の小ささを知る契機にもなりかねない。その瞬間に、人は"諦念"に至るのである。

 

本作で宮本はその過程を隠すことなく、全てさらけ出した。"オレ"という主体性の強い言葉を、過剰に使いながら。そして、この一人称による効果は、作品の内部、つまりは作者自身と聴き手との距離感をより近いものにさせる。つまり、表現者が主体の"俺の道"であるにもかかわらず、あたかも自分自身(聴き手)がその主体になっているかのように聴くことができるのである。共感ではなく、没入、これはあくまでも"あなたの道"ではないのだ。

 

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