かの三島由紀夫の遺した短編、『白鳥』にはこう書かれている。
恋人同士といふものはいつでも栗毛の馬の存在を忘れてしまうものなのである。
登場する高原という寡黙な男と邦子という女性は乗馬クラブにて、一頭の白馬をきっかけに知り合う。互いに白馬を譲りあうのだが、白馬に乗っているときは相手のことが気になって仕方がない。そこで一方が栗毛の馬に乗り、一緒に並んで乗馬をすることにした。その描写に続くのがこの引用した一文。2人並んで乗馬できたのは無論、栗毛の馬の存在が不可欠。しかしながら、恋人同士だけの世界によって、あたかも2人とも白馬に乗っていたような錯覚に陥っているのだった—。
エレファントカシマシ10枚目となった『愛と夢』(1998)は、そんな恋人同士の夢想的になりがちな世界が、甘美なラブソングとなって彩られている。全編を通して二人称で貫かれた詞は、登場する人物を1人の男とその恋人の"二人"に限定させる。そして、その描写の距離感はかなり近いものとなっている。例えば「夢のかけら」では、
右手でそっと髪をかきあげ 醒めてる君のまなざし
ふとした拍子君の言葉が 胸に刺さって抜けなくなるよ
と、かつての恋人に思いをはせながら、一人部屋のベッドに腰掛けている男の情景が描かれているが、詞に近接性をもたせたことで傍からではなく、男の視点で浮かび上がってくるのだった。
また、本作の恋人に対する描写はストレートな言葉だけではなく、幻想的な情景も随所にちりばめられており、ラブソングを強度の高いものにさせている。「真夏の星空は少しブルー」は、まさにその真骨頂のような楽曲であるといえる。夕暮れの都会の喧騒から逃れるように、二人は遠い遠いところへと向かう。海にたどり着いた二人は、夕陽に照らされキラキラと光る波を眺め、影は揺れながらどこまでものびてゆく。そして、二人は手を繋いでそのまま砂浜で眠ってしまう。いつの間にか辺りは暗く、空を見上げると星空が見える、真夏の星空は少しブルーに見えるのだった―。
恋人同士の世界はときに、現実の世界を誇張する。美しいものをより美しいものにさせることもあれば、醜いものはより醜くなってしまったりもする。また、普段の何気ない風景は、恋人の存在によって彩度が増したように見え、その存在が過去のものになってしまえば、たちまち寒色の無機質なものになってしまう。『愛と夢』では、それが美化されることなく、あくまで実直に描かれているのだ。