三浦日記

音楽ライターの日記のようなもの

GLAYのライブ、内輪ネタの究極系

 GLAYといえばさかのぼること10年ほど前、筆者が中学生の頃しばしば聴いていた。当時はビジュアル系のバンドが好きで、特にX JAPANをよく聴いていた。で、その弟分的な存在であるGLAYだとかLUNA SEAだとかも派生して聴くという感じだった。GLAYがビジュアル系でもないのに、X JAPANの弟分といわれているのは、X JAPANのギタリストのHIDEとのかかわりが深いためである。というのもHIDEは、GLAYの存在を世間に広めたきっかけの張本人であるとされているからだ。彼は、まだ無名だった彼らの音楽の才能をいち早く見出し、それを聞いたYOSHIKIがデビューをさせたという逸話がある。悲しいことにHIDEは1998年に33歳の若さで亡くなってしまうが、GLAYはHIDEが亡き後も、hideの楽曲「MISERY」を披露し、リスペクトをし続けている。

 という感じで、個人的にはあくまでもX JAPANの文脈を中心にしてGLAYを聴いていたため、ものすごく詳しい、というわけではないが、まあ人並みには知ってはいた。そんな筆者が、GLAYのライブに行く機会があった。ただ、そんな幸運とは裏腹、彼らには本当に申し訳ないのだが、GLAYの楽曲を最近めっきり聴かなくなってしまっていたのである。それはなぜかと考えたとき、ふと浮かんだのが、ここ数年のうちに彼らの楽曲で世の中から脚光を浴びた楽曲が一曲でもあったか、ということだ。世の中の音楽をヒットする、しないで選別をしてしまうのは野暮ではあるが、社会の情勢や流行が、音楽(芸術作品)とある程度のリンクを果たしているとすれば、多少は加味してもいいのではないかと考えてしまうのだ。

 ただ、筆者の屁理屈を背に、ライブの動員はいまだ超満員ときたもんだ。その衰えぬ集客力、日本にはまだまだGLAYのファンがたくさんいるのである。ただ、あくまでもそれは"GLAYのファン"なのである。音楽のファンではなくて"GLAYのファン"。時代やジャンル、さらには最近の音楽の流れをクロスオーバーしながら聴くのではなく、とことん彼らの世界に埋没をしているのである。そしてなにより、彼らは1990年代の黄金期ともいえる頃の幻想みたいなものを、現在においても再現をし続けようとしているような気すらした。今回、筆者が観に行ったライブでは、なんとなくそんな雰囲気が伝わってくるのだった。

 当然ながらファンの方も、最近の曲よりもむしろ、20年前の曲に熱狂をし、当時と変わらない熱量で、その再現にこたえようとする。全員が一体となって、同じ振り付けをして踊る。映像では見たことがあったが、実際に見に行ってみると壮観であった。音楽に対して、自由にアプローチしながら揺れたりのったりするのではなく、TERUの指示に合わせて、統率の取れた動きをするのである。すごい。野球の外野スタンドみたいな感じだった。本当にGLAYを応援している、というのが伝わってきた。この熱狂的なファンの存在、それを裏切ることなくとことん寄り添うGLAYという構図―。

 CDが売れなくたって、あるいは世間から、まだGLAYってやってたのなんていう罵詈雑言を浴びせられたって、もはやどうでもいいのだ。その空間が幸せならオッケーなのである。まさに、内輪ネタの究極系を見た。

 

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MVの途中には、伝説となった20万人ライブの様子があったり、hideが亡くなったときのセンセーショナルなニュース映像や、それを呆然と眺めるメンバーの姿があったりと、平成の終わりとともに、GLAYのこれまでのキャリアを、総括するような楽曲になっている。