三浦日記

音楽ライターの日記のようなもの

エレカシの「桜の花、舞い上がる道を」の"幹"を太くしているものは何か

 「桜の花、舞い上がる道を」。この曲は、桜の季節になると無性に聞きたくなってくる。桜の風景をみていると、楽曲が脳内で再生され、見事な融合を果たすのである。そんなわけで、今年もこの曲について、つらつらと書いてみることにした―。

 東京の方では、桜の花が散り始める、いや、"舞い上がり"始めるこの頃。桜というのは日本で生活をしていると、どうやっても目に入ってしまう存在である。川沿いを歩けば、桜並木が続いているし、公園や学校なんかには、必ずといっていいくらい桜の木が植えられている。そんな桜、日本に住む者にとっては、ある意味でアイコンのようなものに近い。春といったら桜、そして桜といったら"出会い"や"別れ"などが連想され、その人それぞれの物語とリンクしていくのである―。

 エレファントカシマシの「桜の花、舞い上がる道を」では、桜というものを、単なる桜の情景としてあらわすのではなく、人生と重ねながら、かなり一人称的な視点で、内在的にあらわしている。それはまるで、作詞者宮本浩次の人生そのものを表していると称することもできるが、他方では、歌詞の具体性(固有名詞)は排除され、かなり抽象的な歌詞になっているといえる。

 そして、要所にだけ、強い桜のイメージを持たせる歌詞が入れ込まれる。たとえば、〈桜が町彩る季節になると いつも〉、〈見ろよ 大いなる花 町は昨日よりも鮮やか〉、〈春の風が吹く青空の下〉、〈桜の花、舞い上がる道を〉など。ただ、どこの町なのか、あるいは何月の話なのか、歌詞から簡単には判断することはできない。とすると、内在的であるのにもかかわらず、それらの解釈は、どこまでも外在的な聴き手に委ねられるというパラドクスが生まれてくるのだ。

 それがもしも、"東京の町彩る桜"、だとか"井の頭公園の桜は"、あるいは"電車の窓から見える桜"とかにしてしまった場合は、その解釈はある程度限定されてしまうだろうし、作詞者の意図が、聴き手に干渉しすぎてしまうともいえるのではないだろうか。この曲では、そうした具体性を排除したことで、桜という大衆的なテーマを、ストレートに想起させやすくなっているのだ。

 たが一方でそれは、パッと浮かんで消えてしまうような"瞬間的なイメージ"に過ぎないともいえる。つまりは、桜の移ろいゆく風景を"かみしめる"ような楽曲ではない、ということなのである。そんなわけで、この曲を何度も聴き込んでいると、桜というのは主題ではなく、あくまでも引き立て役、もっといえば桜ではなくても成立してしまうのではないか、とも思ってしまうのだった。

 この楽曲を語るうえで、その内容よりも注目したいのは、ヴォーカル宮本の歌唱である。男声にとって比較的中音域帯の部分では、節の最後でいずれも、母音が"a"もしくは"o(ô)"で締められている。たとえば、Aメロ(mid1Dからmid2Eまでの音域)では、〈生きてたあの頃(ikiteta anokor"o")〉、〈青空の下(aozora no shit"a")〉、そしてBメロ(mid1Eからmid2Dまでの音域)では〈俺が再び咲かせよう(ore ga hutatabi sakasey"ô")〉となっていることがわかる。また、2番のサビの一節目(最高音がmid2G)では、〈見ろよ 大いなる花(miroyo ôinaruhana)〉と、"a"と"o"の母音が密集していることがわかる。宮本にとってもっとも響きやすい音域に、開放的な音が入れ込まれることによって、この楽曲に"華やかさ"や"壮大さ"がもたらされているのである。

 そうかと思うと、サビの二節目以降は、それまでを"開放"とすれば、"緊張"である。この部分は、響きの良い音域からさらに上の臨界点ギリギリのような音域(hiC付近)になっているが、それに伴って歌詞の方も、母音が"e"と"u"になっていることがわかる。たとえば、〈お前と歩いてゆく(oma"e" to aruite yuku)〉、〈遠回りしてた(tômawari shit"e"ta)〉、〈昨日越えて(kinô koet"e")〉、〈胸をはって(mune wo h"a(uに近い発声)"tte)〉、〈生きて行こう(ikite yukô"u")〉といった具合。つまり、より響きにくい(あえて響かせない)ポイントを作っているということなのである。それによって、先ほどの、華やかさというよりは、こちらの方ではキリキリと限界に迫る感じがもたらされているのだ。

 「桜の花、舞い上がる道を」は、桜を通して、自分自身(作曲者)の生き方を投影しているような楽曲だ。けれども、それは限りなく抽象的で、私小説的な要素は意外にも少ない。当然ながら、それだけで日本人にとって共通のアイコンともいえる桜というテーマを成り立たせるためには、あまりにも幹が細い。それを補完するように、この曲の幹を太くしているのはなにより、音の響きであるように思える。桜というテーマを使ったがために、歌詞の内容にフォーカスが当てられがちであるが、歌詞の世界観ではなく、その先の歌詞とメロディ、あるいは歌詞と音のはめ方の美しさこそが、この楽曲の真骨頂といえるのではないだろうか。そうなったとき、この曲を桜ソングであるという言い方で、簡単に片づけられないような気がするのである。

 

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