三浦日記

音楽ライターの日記のようなもの

ヒトの遺伝子を自由に操作できる世の中になったらどうなるか

 中国だったか、HIVが遺伝していた子どもの遺伝子を編集して、HIVではない子どもが生まれたという。これは驚きだ…と思っていたら日本でも現在、ダウン症の子供を産ませないよう事前に、出生前診断を行うことができるようにもなっている。そうした遺伝子の操作、さらに発達していったらいずれ、目の色だとか、肌の色とかを変えることができるようになるのかもしれない。いや、もしかしたら今の医療技術だったらすでにできるのかもしれない。

 もしも、それが実現したら。生まれてくる自分子どもを医師と相談しながら、こういう容姿で、身長はうんぬんかんぬんと、いいながら好きなように作り上げるのだろうか。まるでキャラクター・エディットのように、画面を見ながら、選択していくように。たとえば、今まで黒人差別を受けていた人間が、それを払しょくしたいがために白人になるように遺伝子をエディットする。仮にもそれが、連続的に起こった場合、黒人差別というものがはびこっている場所においては、人種差別は"物理的に"解消されるはずだ。この世の中から、"黒人"という存在がいなくなってしまうのだ。そうなったら、平和な世の中になるのだろうか。いや、むしろ、そういう社会になってしまったら人類は滅亡してしまうのではないだろうか。

 人種差別というのは、到底許される行為ではない。けれども、それは"人種"という外面的に見える差がある限り、残念ながら完全になくなることはないだろう。言い換えれば、それがある限り、議論であったり、差別ができてしまうのだ。では、遺伝子が操作されてそれがなくなったら。当然ながら、黒人、肌の色で差別することはできなくなる。そして、そうなった場合、いじめられていた子が、転校したあとに、別の子がターゲットになってしまうみたいに、またさらに次の段階の差別を生み出して、攻撃をするようになるのではないだろうか。

 必ず他人との差異を求めようとして生きていくのが、人間の悲しい常なのである。この次の段階というのは、内面的なもの、つまりは思想的なものにどんどん埋没していくような気がする。かつては世界では、思想的な差別や、すれ違いがおこったことによって戦争が勃発した。そして、そこに人種的な問題は、からんではいない(というか当時は、今日的な人種差別の概念がなかった)。そうなると、現在は、こうした外面的な差異があるからこそ、まだなんとか成立している世の中になっているのではないかと思ってしまう。遺伝子操作が、人間の"差異的な要素"に、影響を及ぼさないことを願いたいばかりだ。

 

f:id:xxxtomo1128xxx:20190419024438j:plain