三浦日記

音楽ライターの日記のようなもの

村上龍の『限りなく透明に近いブルー』—若者たちのリアリティ

 ストーリーの舞台は、ドアーズやローリング・ストーンズに若者たちが酔狂している頃。ゆとり世代の自分にとってみたら遥か前の話だ。その頃の若者は、団塊世代なんていうけれど、今よりもっと芋っぽくて、時間が経って色褪せたセピア色の写真みたいにどこか古ぼけた感じがある思っていた―。
 
 でも、ストーリーの彼らは今となんら変わりのない若者だった。彼らには色彩が鮮烈に強調された、スマートフォンで撮られた写真のような新鮮さがあった。例えば友人のアパートで流行りの音楽を聴きながら遊び呆け、その足で野音でライブを観に行ったり、適当な場所にドライブに行ったりして、今の学生と同じように“ありあまる暇”をもてあましている。
 
 ただ、登場する人間は皆ドラッグとセックスに明け暮れている。自分がこの本を初めて読んだのは中学1年の頃。タイトルの美しさにひかれて図書館の文庫コーナで借りた。けれども、蓋を開けてみると、そこにはピストルズの楽曲のようにわかりやすいくらいにイリーガルでアングラな人間模様。そして、ドラッグで覚醒状態になって行われる性行為中の生々しさが鮮明に描かれていた。それは思春期の多感な自分にダイレクトに訴えかけ、たちまち吐きそうになった。例えるなら、自分の頭が鐘になって、それが金属棒で強く叩かれ、嫌な音とともに脳内で反響するような衝撃だ。
 
 それから何年か経ち、自分は大人になった。大学入学を機に都会に出て、自分も色々なことを経験した。そしてなにより、彼らと同じくらいの年齢になった。体のありとあらゆる器官が文章と連動して反応してくる感じは、当時に増している。耐えられないくらいに生々しくて、それが具体的なイメージになって脳内に現れてきた。ただ、そこにはニルヴァーナの楽曲にあるノイズに埋もれた美しいメロディ、その中にある疲弊感、孤独感のような感覚がこの作品にもあることに気が付いた。
 
 でも、新鮮で無垢なあの頃の感情はそこにはもうなかった。当時のような傍観者気分ではない。悪事を働いた友人のニュースを見て、恥ずかしくなるような、そんな感情が芽生えていた。『限りなく透明に近いブルー』、これは幻覚で固められた非現実世界ではなかったのだ。確かにそこに存在している"リアリティ"。それを感じた時、酷くつまらないと感じてしまった。【三浦文学1】 
 

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