三浦日記

音楽ライターの日記のようなもの

新東京人間賛歌——エレファントカシマシ「yes. I. do」レビュー

想起されたのは、今、此処ここにある東京の風景だった。ところがその歌詞には東京という言葉は使われていない。無論、それを連想させるような言葉も入っていない。それでも東京なるものを感じるのは、バンドが持っている強烈な土着性だろう。エレファントカシマシ。日本の、東京のロックバンド——。土着性というのは、とある土地で生まれ育った人間が、その土地に根付いた言葉である方言を用いることで発現されるというのが分かりやすい一例である。ドラマか何かで、舞台となる土地の出身ではない役者が方言を使う場面が度々散見されるが、この場合、何かが決定的に足りない。足りないというよりも、努力次第で到達できない要素が存在していることに気付かされる。この方言の眼差しをそのまま東京に置き換えてみる。

 

東京は、流動的な街だ。留まろうとも周りの建物は目まぐるしく変化していく。留まろうとする視点。それだけではなく他の土地から東京を眺める、あるいは東京から他の土地を眺める視点。これらが集まっては線のように交錯し混沌カオスを形成していく。そんな東京においてエレファントカシマシは、35年の歴史の中で東京という土地に対して、どこへ行くでもなく、ゼロ距離で、同じ温度感で向き合い続けてきた。このことは何よりも、メンバー全員が東京で生まれ育ったという揺るぎのない実感が可能にさせる。離郷先としての東京でもなく、さらには形成された東京の混沌カオスに身を置くこともせず、東京人としてただただ虚無的ニヒリスティックに見つめる——。表層的に言葉を並べて歌うだけでは到底到達しえない境地。エレファントカシマシは、東京なるものを表現しているのではなく、もはや滲み出ている。精神や肉体の水準レヴェルで内在しているものの表出にすぎないのである。

 

興味深いことに宮本は、自身に内在する東京を取り払いはじめる。その出発点は2015年の『RAINBOW』がリリースされた時期にまでさかのぼる。2012年に突発性難聴により活動休止を契機にした、老いに対する自覚。老いを受け入れ対峙することで、逆説的パラドキシカルに若さを獲得した。この時期から顕著に見られるようになった高音域でがなるような歌唱と、金切り声のような激しいシャウトは、まさにそれを象徴する一要素であるが、背反するように東京なるものの身ぐるみは剥がれ落ち、身軽になってゆく。次作、2018年の『Wake Up』では自由に対する憧れが作品の大きなテーマとして貫かれていたが、それによって、自分自身の限界に勝負するかのような姿勢がさらに顕著になり、東京なるものの剥落も同時に加速化していった。それから宮本は2019年からソロ・アーティストとして約4年にわたって活動を行うが、この期間、エレファントカシマシという屋号を一旦置いたことで、徹底した軽さを手に入れた。軽さの獲得は、自身の強烈な土着性を徹底的に排除する姿勢と地続きである。宮本は、そこに新しい活路を見出そうとしたのであった。

 

2023年、宮本は再びエレファントカシマシに戻ってきた。宮本が「yes. I. do」で見せたのはどこまでもストレートな表現であった。自身の老いや自由なるものと対峙することでも、バンドに対して反動をすることでもなく、自身に内在するものをメンバーの一人として表現するということ。ストレートな表現は、精神的な変化による機微のみならず肉体的な要素である楽曲のキーの高さにも表れている。というのも近作の「RAINBOW」や「Easy Go」、さらにはソロにおける「昇る太陽」や「Do you remember?」の時と比べて低く設定されており、歌声のスイートスポットが強調されるような音域になっているのだ。歌い方に関しても、がなり立てるような言葉の羅列とシャウトは完全に鳴りを潜めている。バンドの転換点を先に記した宮本の病気療養以前と以後に設けるとすれば、このスタイルは転換点以前、2012年の『MASTERPIECE』の作法を彷彿とさせる。だが、それはただの踏襲ではなく、似て非なるものであった。

 

当時と大きく異なっているのはやはり、東京なるものを剥落させていくプロセスが存在していたかどうかである。このプロセスを経たことで、以前とは全く異なる新たな視点がバンドの中に芽生えた。キャリアの中で蓄積されたものは、あるいは既に消失してしまったのかもしれないが、密やかに内在し続けていた軸の部分。つまりは郷愁ノスタルジアではない、今の東京の視点がそこにはあった。1994年「東京の空」の頃に封じ込められた東京の再現では決してないのである。1970年代に日本のベッドタウンに存在した団地は現在、建て替えが急速に進み、まったく新しい風景へと変化した。宮本を含むメンバーが生まれ育った赤羽の街並みも例外ではない。かつての東京の景色はもうそこにはない。が、生活は相も変わらず営まれて続けている——。あの頃の風景は変わってしまったのか。否、不断に変わり続けてきたにすぎないのだ。

 

「yes. I. do」における一連の宮本の視点は、生物学者である福岡伸一が定義した"動的平衡"にもつながっていく。福岡は著書『生物と無生物のあいだ』において、

生命とは動的平衡ダイナミック・イクイリブリアムにある流れである。

と述べているが、これは、人間の細胞というのは解体と再構築の連続であり、今ここにいる自分というのは、分子にまでズームしたミクロの視点で見ると、常に流動的な存在であるということである。人間は、半年あるいは一年ほどですべての細胞が入れ替わってしまうという。昨日の自分は今日の自分とは違う。明日の自分もまた、今日の自分とは違うのである。そして人間は平均して80年もの間、流動的に個体としての秩序を保ったのち、増大し続けるエントロピーが最大化した瞬間、死を迎える。このことは人間に限ったことではなく、宇宙に存在する万物に当てはまるいわば究極的な原則である。東京というマクロもまた、解体と構築が繰り返され、いずれ無に収束してゆくということなのである。

 

さらに突き詰めると、福岡が定義した動的平衡ダイナミック・イクイリブリアムと、エントロピー増大の法則が存在している以上、例えば、若返りなども不可能ということなのである。では、それに対する抵抗は本当に不可能なのだろうか。宮本は「yes. I. do」の一節においてその唯一の抵抗手段を示している。

流れる時にあらがうわけじゃない 弱さにあらがいたいぜ

端的であるが、なんと美しいのだろう。言葉はメロディーにこれ以上ないほどに溶け込み、実感をもって訴えかけてくる、そんな一節であるが、"流れる時"が動的平衡ダイナミック・イクイリブリアムという逃れられない人間の自然の摂理であるとするならば、宮本はそこにあらがうのではなく、"弱さ"にあらがいたいと歌う。"弱さ"という内的な部分にあらがおうとする姿勢。つまりは自然の摂理から外れた部分に対して自覚的になることで、相対的に若さを獲得することが可能になるというのだ。楽曲を貫く東京の存在、まずはそこに対する動的平衡ダイナミック・イクイリブリアム的な視点と、歌詞にも内在する同様の視点。「yes. I. do」はまさに、東京から出現した、新しい人間賛歌なのである。

 

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