三浦日記

音楽ライターの日記のようなもの

"随筆"や"日記"のような、軽やかさ―カネコアヤノの『祝祭』レビュー

 空飛ぶ絨毯の“絨毯”が、“畳”になって飛んでいる感じ―。 

 いつだったか、スピッツ草野マサムネが、カネコアヤノが創り出す音楽をこんな風に表現していた。何とも的を射ているなと思った。古い木造の文化住宅の畳部屋に、1人の女の子が座ってくつろいでいる。そこに突然強い風が吹いて屋根が抜け、彼女は畳ごとどこか遠くへ飛んで行ってしまう。それでも彼女は、そんな事態お構いなしという感じで、小説片手にのほほんとしている―。筆者は、草野の言葉をこんな感じに解釈した。 

 『祝祭』には、そんなカネコアヤノの飄々とした雰囲気が色濃く出ている。日常の中で起きた出来事は、時折煌めくような言葉遣いでデフォルメされ、実際の情景よりも鮮やかになって想起されてくる。ただ、それはあくまで日常の一部にすぎない。現実世界の感傷的、あるいは愉悦的な出来事、それを取り巻く風景について、彼女は決して誇張することなく、到ってありのままにそれを表現しようとしている。〈強い日差しと熱を持つ自販機で 冷たいレモンと炭酸のやつ 買った〉 (「恋しい日々」)、〈騒がしい路地の隙間から 西日が差すだけ泣きそうで すべてのことに理由がほしい〉(「アーケード」)。そして、彼女はそれを埋もれさせまいと、高らかに、叫ぶようにして歌う。 

 それは、理想や、社会に対する不満を歌うような、ある種の偶像的なシンガーソングライターとは一線を画しているようにさえ思える。カネコアヤノは、限りなく日常に寄り添い、そこに潜む美しさのかけらを拾い集め、自分自身の"叫び"として昇華させる。だが、そのまなざしは軽やかで、決して気張っていない。大衆に向けた共感の追求ではない、"随筆"や"日記"のような、軽やかさが『祝祭』にはあるのだ。

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