三浦日記

音楽ライターの日記のようなもの

ソロ活動に直結する伏線作———エレカシ全作レビュー XIII『DEAD OR ALIVE』

2002年にリリースされた『DEAD OR ALIVE』は2019年になって、当時とはかなり違った聴き方ができる作品だと言えるだろう。それは本作が、前作「good morning」から続く宮本浩次のソロ作品的な流れであったことと関係する("バンド・サウンド回帰作"とされているが、音のバランスやまとまりを鑑みるとそう感じざるを得ない)。そして、2019年といえば、これまで30年以上エレファントカシマシに身を置いてきた宮本がソロ・アーティストとしてデビューした年。つまり、この期に及んでクロスオーバーを果たしたのが、この『DEAD OR ALIVE』ということなのである。

 

今年、宮本がリリースした「解き放て、我らが新時代」は、特にそれが象徴されている。この曲にはリリックにサンプリングがあるが、いずれも『DEAD OR ALIVE』からの引用である(太字部分)。

〈Yo! Yo! 陽気なる逃亡者たるキミへ
そろそろ本気になろうぜ Dive!
大胆にもっと Jump! 傷ついて
何度でも立ち上がれ Let's Dance〉

そのサンプリング元は、

〈陽気なる逃亡者たる君へ言う
疲れた時には孤独になれ〉
(「クレッシェンド・デミネンド-陽気なる逃亡者たる君へ-」)

〈でも見てみなよ 見てみなよ
太陽は昇りくる
何度でも立ち上がれ
更に大きなぶざまを掲げて行け
何度でも立ち上がれ〉
(「何度でも立ち上がれ」)  

今までは、ここまではっきりとした引用はなかったために、憶測ではあるがここは自覚的にこの時期の作品の歌詞を引用したのではないかと思う。そして、

〈しばられるな! 解き放て、理想像〉

という部分も、『DEAD OR ALIVE』に収録されている「未来の生命体」の 

〈やさしさや悲しみや飼い殺しの鬱屈をためたこの病を
も一度解き放ってやらなきゃなるめい〉

と、〈やさしさや悲しみや飼い殺しの鬱屈をためたこの病を〉が縛られているものの暗喩という解釈をすれば、〈しばられるな!〉につながり、〈も一度解き放ってやらなきゃなるめい〉も、前半部分に掛かっているとすれば、やはり〈解き放て、理想像〉へとつながるために、サンプリングとまではいかないが、ある意味で対応していると言えるのかもしれない。

 

『DEAD OR ALIVE』は、宮本のソロ・ワーク的であると同時に、30に差し掛かった宮本の理想や生き方の模索が溢れ出ている。ただ、溢れ出てはいるものの、悟りの境地には至っていない。どちらかといえば、衰えゆく心身に対して、惰性で過ごしている自己との格闘である。"三十にして立つ"、あくまで起点にすぎない。それから20年が経ち、2019年にリリースされた楽曲では、本作の楽曲から数曲サンプリングされた。これは、20年前に提起した問いに対する宮本なりの答えだったのではないだろうか。"五十にして天命を知る"、確実に訪れる死というものを受け入れ、自己を解放し新たなフェイズへ向かうことの宣言——。そうなったときこの作品は、2019年に聴くと極めて伏線的であるといえるのではないだろうか。

 

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