三浦日記

音楽ライターの日記のようなもの

野音バックヤード 2022年9月25日

眠い目を擦り外を見やる。雲一つない、まさに絵に描いたような秋晴れだ。ベッドでしばらくダラダラとした後、洗濯物を干すためにとりあえず起き上がってみる。昨日まで秋田の実家にいたが、その時は生活が安定していたような気がする。生活はあっという間に不安定になる。精神的な面でも何かぽっかりと穴が開いたような気分だ。近所にある老夫婦のやっているこぢんまりした定食屋で昼食をとり、借りていた書籍を図書館に返却する。その足で駅まで行って、日比谷公園へと向かうことにした。というのも今日はその公園内にある野外大音楽堂、通称野音にて、エレファントカシマシのコンサートが行われるのだ。が、あいにくチケットを取ることはできなかった。相変わらずの狭き門である。なお、外でその音漏れを聴く、いわゆる外聴きについても新型コロナウイルスの影響のため禁止されていた。だから今日は、あくまでも、公園に行くだけである。無論、公園の利用自体は禁止されていない。いやはやこれは頓智(とんち) だ。

 

16時45分頃、千代田線霞ヶ関駅に到着する。地上へと続く階段、青い空が四角形になって見えてきた。出口から日比谷公園までは少しだけ距離があった。やがて、鶴の噴水のある池が見えてくる。さらに奥の方へと進んでいくと、古墳のような盛り上がりになっているスペースがあった。そこにはベンチが円を描くように数か所設置されており、その内の一つだけ空いていた。例によってそこに座る。巨木の葉で空が覆われているためか辺りは既に薄暗い。時計回り、隣のベンチには、無精ひげを生やした長髪の男性がじっと座っている。その隣には、女性が2人。マスクをしており、何を話しているかはまったくわからないが、ある事物について、何やら熱く語っている様子であった。その隣は、コートを着こみ、ベンチに露天商のごとく所持品を広げている女性。ベンチと一体化したブロンズ像のようにまったく動く気配がない。そして最後、自分の隣には読書をしている白髪の女性がいた。

 

野音の方向からは、拡声機で増幅されたコンサートスタッフの声がひっきりなしに聞こえている。視線の先に見えている噴水広場では、子どもたちが遊んでいる。2年前、2020年に一度来た時とは大きく違っている光景だ。あの時は、誰一人として人がおらず、不気味なくらいの静寂であった。行き交う人々は相変わらずマスクをしているが、それ以外はこれまでの日常に戻ってきているかのように見えた。17時5分、突然、野音の方から拍手が聞こえてきた。つまりはコンサートが始まったということである。日比谷公園のベンチに座っていたら、たまたま近くにあった音楽堂から音が聞こえてきた。パチンコ店で換金行為はできないが、たまたま近くにあった換金所に特殊景品を持ち込んだら換金ができた。あるいは某風俗街。売春は違法であるが、あくまでも料亭であり、そこにたまたま居合わせた女性と恋に落ちたら事を致せた——。たまたま——日本における、美しきタテマエ文化は、日比谷公園の地においても花開く。ここからはその環境音の記録である。

 

1曲目は「過ぎゆく日々」だった。エレファントカシマシの野音といえば、キャリアの初期の楽曲を序盤に持ってくることが多い。中でもこの曲は滅多に演奏されないため、少々不意を突かれた。ベンチの女性2人は曲が始まってもまだ話を続けている。よほど募る話があったのだろう。野音で構築された音の塊は風に乗って、幾分離れたこちらの方までくっきりと聞こえてきた。体を野音の方角に向けると、さらに音がよく聞こえる。静の始まりから「地元のダンナ」で一気に動へ。空気の振動の趣が変わる。時おり青年が、マウンテンバイクでこちらのほうにやってきた。ちょっとした小高くなっているこの場所は、その練習にちょうどいいのだろうか。遠くの方に行ったと思ったら、池を飛ぶオニヤンマのようにまた一定の間隔でやってきた。「ふわふわ」が始まった。これがとても良かった。このご時世にあまりにもフィットしている。〈何にも見えない ふわふわの生活/ どれがほんとか わからない 不思議さ〉。軽妙かつ皮肉たっぷりに歌う宮本の声はあまりにも瑞々しい。やがて、風が冷たくなってきたので、上着を羽織った。

 

宮本の潰れたようなギターの音がドラムビートに絡みついていき、だんだんと楽曲のリフに変容していく。それが「未来の生命体」だと気が付いた時には反射的にベンチから立ち上がり、野音の方へ吸い寄せられていた。まるで、コンビニエンスストアの灯りに群がる羽虫、あるいはそれ以下の下等動物である。野音の外壁周辺には、思った以上に多くの人がいた。金属のポールや石段にめいめいに腰掛け、誰もが俯き加減で祈るような格好であった。グッズを身に纏っている人は誰一人としていない。彼らはあくまでも公園利用者なのである。あたりは暗くなり、虫の声が一段と大きくなってきていた。ベンチにいた時よりも、宮本の歌声とバンドサウンドがよりクリアに聞こえてくる。そして、野音が静寂になると、今度は虫の声が際立ってくる。都会のオアシスで感じる秋の情緒、そこにサウンドが立体的に混ざり合う。これこそが野音の醍醐味である。そのようにして、悦に浸っていると、何を思ったか若者3人組の内2人が大声を出しながら野音周辺を練り歩き始めた。絵にかいたような若気の至りである。彼らは一体何をしに来たのだろうか。もし、仮にもエレファントカシマシ好きの友達の付き添いで来ているのだとしたら、その友達は、彼らと絶交することを強くお勧めする。

 

中盤、「東京の空」が演奏された。これがあまりにも圧巻であった。正直もう二度と演奏するとは思っていなかったから野音の楽曲予想から完全に抜けていた。トランペットは無し。キーボードの音は微かに聞こえてくる。いわゆるバンドサウンドのみのシンプルな構成。そこに宮本のどこまでも伸びやかな歌声が都会の空に広がってはスーッと消えていく。バンドと東京という場所との境界が一切無くなる奇跡的な瞬間であった。この1曲を聞けただけでも、今日来た甲斐があった。2020年以降のコロナ禍で作り上げられた声出し禁止のコンサートのフォーマットは奇しくも、宮本がキャリアの当初に思い描いていたスタイルの実現であった。日本のプロ野球においてその応援歌や声出しが禁止された際、打球音やボールがキャッチャーミットに収まる音、そして選手たちの声が明瞭に聞こえるようになったように、彼らのコンサートでも同様の現象が起こった。宮本と他のメンバー絶妙な掛け合い、マイクを通さない宮本の肉声まではっきりと聞こえてくる。この生々しさは、日比谷公園全体に得も言われぬ緊張感をもたらしていた。

 

終盤は、いわゆる野音の定番ともいえる楽曲が聞こえてきた。とぼとぼと散策がてらのバックグラウンドミュージックである。「武蔵野」、「友達がいるのさ」、「so many people」そしてアンコールの「星の降るような夜に」——。これはマンネリか、あるいはそうではなく、儀式であるとしたら——。東京のビル街の真ん中に佇む野音と、東京なるものを具現化したバンドとが同化するための儀式。野音に存在するありとあらゆるものが、エレファントカシマシと呼応しあう。カラスの鳴き声、音響式信号機のメロディ、木々が風にこすれる音、虫の鳴き声、そして中央省庁のビルの風景、東京の空——。約2時間半、25曲。近年の彼らのコンサートの中では少ない楽曲のセットリストであったが、かえってコンパクトで無駄なものがそぎ落とされているような印象を受けた。2020年の野音、そして2022年の新春日本武道館で宮本は、"エレファントカシマシなるもの"を演じているように思えた。だが今回のコンサートではそのようなことはなく、エレファントカシマシの宮本として足が地に付いていた。そして、ソロで置いてきた「東京」を再び拾い上げようとしている気概も強く感じたのだった。

 

終演後、お決まりのマイルス・デイヴィスの「Right Off」が流れてきた瞬間を見計らって、そそくさと霞が関駅へと向かう。ホームに続く地下通路をしばらく歩き、ふと腕時計に目をやってみると、何やら焦げ茶色の細長い物体が手をウネウネと這っていた。ムカデである。リュックサックの中に紛れ込んでいたのだろうか。すぐさま振り払う。ムカデは駅構内の床にポトリと落ち、溝の方にスルスルスルと逃げていった。その数十秒後、今年一番の寒気がした。なにか驚いた後の寒気というのは衛星放送のように、遅れてやってくるということが分かった。どんよりとした電車内では誰もがマスクをしていた。やがて、最寄り駅に到着する。外はより一層涼しくなっていた。1年の中で最も過ごしやすい季節の到来である。日比谷公園に行った日のこと、あるいは、野音バックヤード。