千代田線車内、電車は東京の中心部へと向かっていた。朝も夜も変わらない、地下鉄の暗くて長いトンネル。数分おきに駅のホームに到着し、その度に蛍光灯の白い光が充満する。まずはホームドア、それから電車のドアが開き、車内の人々の風景が目まぐるしく流動していく。構内アナウンスと発車メロディが鳴り響くと、ドアは「プシュー」という音と共に閉まり、車窓は再び暗闇の世界に一変する。この繰り返し。
「まもなく、日比谷。出口は右側です」
電車から降り、長いホームを歩く。案内表示を確認する。日比谷公園 A14。出口へと続く階段を上っていくと、だんだんと音響式信号機のメロディの音が大きくなってきた。地上に出ると、ビルと車が往来する景色が広がっていた。
東京は、もうすっかり秋だった。空を見上げれば曇り空の合間に太陽の光が降り注いでいる。数週間前までの暑さを思うと、もうだいぶ過ごしやすい気温になった。腕時計の針は、15少しすぎたところを指していた。数年前に来たときは大噴水があったが、工事中のためか、ガードフェンスですっかり囲われ目隠しされていた。 芝生広場を抜け、大音楽堂の方へと向かう。目の前に広がる木々はその歴史の中で空を覆うほどの大木に成長している。薄暗い、森のような道を歩いていると、ある一定の場所から雰囲気が一変するのを感じる。ベンチで本を読んでいる人、公園に点在している置き石に腰掛ける人、木々の間の原っぱにシートを広げている人——。大音楽堂に近づくにつれてその密度が高くなっていく。もれなく、誰もが何かを待っている。その、何かとは——エレファントカシマシのコンサートであった。
2023年で最後のはずだった。というのも東京都の再開発事業の一環として、この日比谷野外大音楽堂も整備の対象となっていたのだ。同年10月、1か月後に迫っていた使用休止の最後、花を添えるかのように、エレファントカシマシもコンサートを開催した。宮本はその終盤で、
「日比谷の野音、100周年ということで……すごいことになってて、でも俺たちもその100年の内に33回もやっていて、結構すごいよね。"100分の33"です!改修するっていうんで、またいつでもやってきます、エブリバディ!」
と言い残していた。会場にいる誰もが、これが改修前の最後の野音になると思っていた——。改修工事が先延ばしにされるという報道があったのは、その直後だった。そして2025年、その機会が再び巡ってきた。言うなれば"野音ボーナストラック"。そして、これが野音改修前、正真正銘の最後のコンサートだ。
16時前になり、既に日が傾き始めた東京。大音楽堂のすぐ近くにある雲形池のベンチに腰掛ける。池の中央には小島があり、鶴の嘴が上を向いている。そこから大音楽堂の方を眺めていると、公園内で座ることができるありとあらゆるスペースに、パズルのようにシートが敷かれ、キャンプ用の椅子が置かれていく。その度に、カサカサと落ち葉が音を立てる。旧友との再会を懐かしむ姿、バンドのTシャツを身に纏い、集合写真を撮る姿——エレファントカシマシにまつわる、それぞれの物語が、日比谷の地で重層的に繰り広げられていく。公園の隙間は見る見るうちに埋まり、一帯はお祭りが始まる前のような高揚感になっていく。開場の時間が迫り、急ぎ足で大音楽堂の方向へと移動する。入場の行列は既に建物をぐるりと囲っていた。後方立見席は指定席とは別の列だった。スマートフォンのチケットに記載された、整理番号の順に一人ずつ呼ばれていく。
呼ばれたのは最後の方だった。身分証明書を提示し、遺跡のような雰囲気の苔むしたコンクリート造りを進んでいく。場内に続くスロープを上ってゆくと、景色が開けてきた。本来であれば、もう二度と見るはずのなかった光景。後方立見席は、会場の一番後ろの少し広くなっているスペースだった。体を預けられるくらいの高さの手すりが数か所にわたって設置されており、中央にはPA席と関係者席のテントがあった。会場内ではThe Smashing Pumpkinsの「1979」が流れている。今回の開演前に流れる音楽は、宮本の音楽的な嗜好を特に強く感じた。The Rolling Stones、そしてイギー・ポップ、ロックレジェンドの楽曲は、往年のアンセムソングではなく、いずれも2020年代にリリースされた楽曲というところにも彼の"らしさ"が滲む。楽曲を構成するビート、ラウドネスは野音のコンクリートに染み渡っていく。
突然、空気が一変するのを感じる。ベックの「Morning」が流れ始めた。スローなアコースティックサウンドはやがてRadioheadの「Fake Plastic Tree」へと地続きにつながっていく。会場もそれに呼応するように、異様な静けさで満ち溢れていく。ステージの周辺はスモークによって霞がかり、何か神的な行事が行われるかのような様相を呈し始めている——。規則的にリフレインするアンビエントがフッと止まった。緊張感の極致の数秒間。やがて、照明がパッと点灯し、ステージを黄白色に染め上げた。17時4分、いよいよ最後の野音の幕開けである。割れんばかりの拍手の中現れたメンバーたちは、真っ黒い衣装で揃えられている。宮本浩次(Vo./Gt.)、冨永義之(Dr.)、高緑成治(Ba.)、石森敏行(Gt.)の4人だけ。余計な所作を一切入れることなく、それぞれの持ち場へと向かう。
「エブリバディようこそ!」
石森の方向を向いた宮本、手をだらんと下ろし俯くとたちまち顔は長髪で覆われた。 異形のような佇まい。宮本に微かな動きが見えた。それを逃すまいと、阿吽の呼吸で静謐な単音ギターのフレーズが鳴らされる。1曲目は『「序曲」夢のちまた』。ベースのルート音に宮本の声、数小節を経てバスドラムとギターのアルペジオが加わる。極限まで音が削ぎ落とされた世界の中で、祈るように歌い上げるその歌声には全く濁りがない。59年という時の流れを忘れてしまったかのような瑞々しささえ感じられる。都会の空にどこまでも伸びていく声。終盤〈春の一日が通り過ぎていく/ ああ 今日も夢か幻か/ ああ 夢のちまた〉の箇所では、ギアが一挙に数段階上がり、そのハイトーンは地響きのような荒々しい音に変容する。一瞬にして、観客のみならず、建物全体が揺り起こされるような感覚に陥った。ついに、始まった——。
間髪を入れずに「俺の道」へ。ここからキーボードに細海魚が加わる。イントロ、ギターのコードストロークとシンバルに着けられたタンバリンの音が充満する会場内。突然、遠くの方からけたたましい車のエンジン音が近づいてきた。音はドップラー効果により、甲子園のサイレンのような高音となってすぐに消えた。わずか数秒の出来事。不思議なことに、全くうるさいと思わなかった。むしろ、暴風雨のような狂気に満ちた楽曲の始まり警告する演出のようにさえ思えた。野音は、そしてエレファントカシマシは、東京のありとあらゆる音を受け入れ、呼応する。サビでは囁くような序盤から一転し〈ドゥドゥドゥドゥッドゥドゥー〉と言葉にならない叫び声でまくし立てていく。スキャットに収まりきらない感情はさらに、余韻のような掛け声になって横溢する。声が裏返ろうが掠れようが関係ない。楽曲の最高音の点にひたすら声をぶつけていくだけの狂気的所業。宮本はやがて、足を大きく広げた蟹股の体勢になり、さらにギアを上げていく。恐ろしいことにその熱量が上がれば上がるほど、声の音程 は正確になっていく。人間の姿を辛うじて保っているバケモノがそこに、いる。
続いて、1988年のデビューアルバム『THE ELEPHANT KASHIMASHI』から2曲立て続けに「デーデ」と「星の砂」が披露される。当時を懐かしむ素振りはどこにもない。瞬間の連続が今日までただただ続いているだけ。そのせいだろうか、この日の宮本からは20代の頃と限りなく近似値の青さを感じる。そして、放たれるメッセージもまた、2025年の世界において、リアルタイム性をもって聴こえてくる。僅かながらに綻びのあったバンドサウンドは、宮本の扇動によって徐々にひとつの塊になっていく。いつの間にかスーツを脱ぎ捨て、白シャツ姿になった宮本。「ブワァー」と立て続けに数回、「星の砂」のアルペジオの余韻を掻き消すように締めくくってから始まったのは「太陽ギラギラ」だった。どうやら今日はとんでもないコンサートになりそうだ。(続く)
後編はこちら
開演前SE
01. Pixies - Winterlong
02. Lenny Kravitz - Let Love Rule
03. The Smashing Pumpkins - 1979
04. The Rolling Stones - Mess It Up
05. Iggy Pop - Modern Day Ripoff
06. The Stone Roses - Driving South
07. Beck - Morning
08. Radiohead - Fake Plastic Trees
09. Weezer - Say It Ain't So
10. Sigur Rós - Gold
11. Steve Reich - Electric Counterpoint: I. Fast
