川沿いの彼岸花が枯れていた。夏の暑さがもう遠い昔に感じられるようになった今日この頃、私はエレファントカシマシの日比谷野外大音楽堂で行われたコンサートについて書いていた。いわゆるライブレポートというものである。当時、五感を通して刻印された記憶とじっくり向き合い、文字に落とし込んでいく作業。毎回、辛く険しい道のりであるが、それが終着した瞬間の喜びを求め、ひたすら書き進めていた。そんな最中、その手が止まるようなニュースが目に入った。
2025.10.08 NEW!
エレファントカシマシ 冨永義之に関するご報告とお詫び
10月4日(土)、エレファントカシマシ ドラム 冨永義之が、酒気帯び運転による接触事故を起こし、道路交通法違反で検挙されるという事案が発生いたしました。
これは一体、どういうことか——。字面通りの意味であることには変わりないのに、状況の整理が追いつかない。誰か有名人の突然の訃報を目にしたときに近い感覚が襲ってきた。だから、今はこうして文章を書くことしかできない。このブログは"日記"と豪語しておきながら、個人的な感情についてはここ最近、あまり書かないようにしてきたが、久々に日記らしいことをしてみる。
それにしても、本当に残念だ。この世の中のありとあらゆる犯罪は、断じて許されるものではないが、その中でもこの事案は特に引っかかるものがある。というのも酒気帯び運転は、その瞬間、一回性の罪ではなく、過去から現在までの継続的に行われてきた(可能性が高い)罪だということだ。つまり、そこに至るまでの背景、そこから派生する生活習慣を想うとある種の生々しいものを感じざるを得ないのである。先日の野音のパフォーマンス、さらにはこれまでにリリースされた作品に対する見方が変質してしまったのは紛れもない事実だ。世間にはイメージがつきものである。エレファントカシマシが何十年もかけて醸成してきたイメージの一つには、フロントマン宮本を中心に据えたストイックなバンドというものがあった。少なくとも彼らは怠惰でルーズであるというベクトルとは対極の部分で勝負してきたように思える。エレファントカシマシは"ワンマンバンド"と揶揄されることもあるが、デビューから40年近くもの間、続けることができているのは、それぞれのメンバーが自分の役割を理解し、極めてストイックバンド還元し続けてきた努力の賜物だろう。
だが、実際は、そうではなかった。この"実際は"の部分が、時に決定的なダメージを与える。この人はそもそも悪いことをしていそうだから仕方がないか、よりも、実は裏でこういう悪いことをやっていました、という方がイメージの低下が著しいことは、昨今のスキャンダル報道を見ていても痛いくらいによくわかる話である。たとえそれがメンバー1人、あるいはたった一度の過ちであったとしても——バンドのイメージは逆ベクトルからの障害によって一瞬にしてバラバラと崩れ去ってしまうのである。そして今回はそのタイミングがあまりにも悪かった。というのも、エレファントカシマシでも、ソロ宮本浩次でもないプロジェクト「俺と、友だち」が今まさに始まろうとしていた時だったのである。その出発となるステージに抜擢されたのが、渦中の冨永であったのだ。一体これからどんな景色がみられるのだろう。ソロデビューを発表した時以来のワクワクした感情になったことは記憶に新しい。
これは間違いなく、バンド史上最大の危機であるといえる。彼らがこれまでも数回、危機的な状況に陥っていることはもはや、周知の事実である。度重なるレコード会社の契約打ち切り、メンバーの病気、特に2012年の宮本の突発性難聴による活動休止——。その度にバンドは立ち上がり、そうした状況を打破してきた。だが今回はこれまでとは違う。自己だけではなく他者が介在する問題なのである。極端な例を出せば、もし、人を轢き、その人が帰らぬ人となってしまっていたらどうなっていたか。そうなりかねなかった重大な事態である。現在の状況を打破することは困難を極めるだろう。あるいはできないかもしれない。それでも、その中で、何とかやっていかなければならない。契約切れ、どん底からの出発のライブは下北沢SHELTERだった。そして、今回もまた同じ下北沢SHELTER。運命——。そんなものは信じたくもないが、その存在を認めざるを得ないくらいよくできた話ではないか。
ライブは10月8日、アナウンスの通り開催された。終演後、宮本のInstagramのストーリーズにはこの日の映像がアップロードされた。「夢を見ようぜ」。僅か数十秒であったが、その様子に悲壮感はまったく感じられなかった。他人の心配をしているくらいなら、自分の心配をしたらどうだと言われたような気がした。ライブでは、宮本から謝罪の言葉はなかったという。安心した。私はこれで良かったと思う。ここまで散々イメージだの、残念だの書いてきたが、改めて、ミュージシャンに世間の常識を押し付けるのは野暮だと思う。ミュージシャンはこういう時こそ、歌で伝えてほしい。人間、宮本浩次による謝罪など見たくないし聞きたくもない。あくまでもミュージシャン、宮本浩次の今のメッセージを感じたい。これは、甘えや擁護などではなく、表現者たるもの良くも悪くもそういう宿命の生き物であるはずだからだ。多くの人はそれができないから、安直に(あえてそういう表現を使う)謝罪文を掲載する。けれども宮本は違う。音楽で今、自分の渦巻いている葛藤を表現に落としこめる数少ない存在であると私は信じている。宮本はやはり、逆境の星に生まれた男だった。間違いない。これは運命だ。宮本は歌う。〈取り敢えず行くしかなさそうだ/ 上り下りの道/ ああ 信じて転がるエブリデイ〉と。前途多難の航海をどう乗り越えていくか。彼らのこれからの表現を腰を据えて見届けていきたい。
