三浦日記

音楽ライターの日記のようなもの

マイ・ネーム・イズ・ビリー・アイリッシュ――藤井風 ライブレポート BILLIE EILISH HIT ME HARD AND SOFT TOUR 後編

17時ちょうど、会場内が暗転する。それと同時に一斉にスマートフォンの明かりが点灯し、場内は夜景のような光の点に様変わりする。まもなく観客のどよめきを切り裂くように、インストゥルメンタルが始まった。ロバート・マイルズの「Children」を思わせるクールさの中にミステリアスをさりげなく散りばめたピアノのフレーズを起点に、まずはベース。それからドラムがビートを刻んでいく。どうやら打ち込みではなく、生のサウンドだ。それぞれのアンサンブルによって徐々に熱を帯びていく楽曲は、1990年代のアシッド・ジャズのような体裁に落ち着いていく。夜の高速道路、流れていく連続的な光を想起させる音の色とスピード感。さいたまスーパーアリーナが瞬く間に"夕方"から"夜"の空気に変わっていくのが分かる。しばらくすると、会場の隅のステージに続く通路。「×」の交点をセンターステージとするなら、その左下の通路の方から、藤井風がスタッフの誘導灯に照らされながら歩いてくるのが目に入った。狂乱一歩手前の悲鳴と共に、スタンディング席の観客は、まるで砂鉄が磁石に吸い寄せられるかのように、一斉に群がっていく。 インストゥルメンタルの終盤では随所に「まつり」をモチーフにしたフレーズがビートの合間に滑り込んでいき、1曲目の期待を直感的に増幅させていく。

 

藤井がステージに上がると同時に音楽がピタっと止まった。やがてキーボードがセッティングされたポジションに着くと、歓声がひと際大きくなる。青色のスポットライトを浴びた藤井は仁王立ちになりじっと動かない。その歓声を十二分に味わっているかのようだ。10秒ほど経過しただろうか、藤井は鍵盤に手を添え、「まつり」の冒頭のフレーズを長めにリフレインさせながら弾き始めた。たちまちステージライトは真っ赤に染まる。キーボードは電気信号による出力ではあるものの、そのスタイルは弾くというよりも打楽器の如く叩くという表現がより相応しい。リフレインは即興性を持ちながらたちまち別の形に変化し、バンドサウンドがそれに決して後れを取ることなく的確に絡みついていく。キーボードのグリッサンドと共に藤井は後ろにのけぞりながら、ノールックで余裕綽々にイントロのフレーズを弾いていく。この時点で既にとんでもない存在感だ。その異彩のブラックホールにあっという間に呑み込まれていくのを肌で感じる。この日の藤井はサングラスにグレーのスーツ姿。サングラスは眉間部分にもレンズがあるいわゆる"三つ目(サードアイ)グラス"。肩にパッドの入ったその個性的なシルエットと相まって、まるでコレクションを闊歩するモデルのような出で立ちだった。

 

それにしてもまさかフルバンドの編成で来るとは。オープニングアクトということで、てっきりシンプルにピアノの弾き語りをするものだと思っていたから、この大盤振る舞いには驚いた。藤井の歌声が乗ると、今度は余白を持たせたキーボードに切り替わる。和音は他の楽器隊が生み出すビートを強調するかのような配置で鳴らされ、スタジオ音源のそれとは全く違うノリ方になった。その歌声は囁いているようだが、低音部分にどっしりとした芯を感じる。とはいえそれはいつまでもべったりと耳に残ることはなく、雪の結晶のように煌めいてはあっという間に溶けていく。続いて演奏されたのは「何なんw」。藤井はイントロを弾きながら「コンニチワー」と言い放つ。まるで勝手口から上がってくる近所の奥さんのようなそのトーンに、場内の雰囲気が一気に弛緩する。先ほどまでの祭りの土着的な美しさと、それに起因する日本的な秩序を持った旋律から一転、より自由に解放された音の塊たちは、会場を跳ね回っていく。それに引きずられるように、"ビリー・アイリッシュモード"だったアリーナの観客たちも、徐々に熱を帯び、体の揺れが大きくなっていく。

 

藤井はアメリカで開催されたフェス、ロラパルーザについこの間出演したばかりであったが、それをそっくりそのままはるばる日本まで空輸してきたかのような佇まいであった。不思議なことに、そのパフォーマンスを観ていると、日本人アーティストというよりは、海外アーティストが来日した時に似た感覚になった。無論それは、彼のMCのせいもあったかもしれない。彼の母語はもちろん日本語であるのだが、今日の藤井が口に出す言葉は、歌を除けばそのほとんどが英語。だがそこに違和感はまったくなく、むしろ自然でさえあった。
「I miss you, I miss Japan. Hello, my name is Billie Eilish. (会いたかったよ、恋しかったよニッポン。どうも、ビリー・アイリッシュです)」
と、自己紹介ジョークが飛び出ると、会場はドッと笑いが起こる。途中、ビリー・アイリッシュの「bitches broken hearts」の弾き語りがさらりと挿入される。血の滲むような努力に裏打ちされた、徹底的に無駄の排された和音の妙。無論、カバーであるのだが、まるで今この場で曲が生み出されたかのような、新鮮な響きを感じた。

 

「Where is your flower? (あなたの花はどこ?)」
と言って披露されたのは「花」。藤井は前後にゆらゆらと揺れ、リズムをとりながらイントロのメロディーを奏でていく。その一音一音から、花のイメージが浮かび上がってくる。オレンジ、真紅、そして黄色の無数の花——。それらは砂漠のような荒涼とした場所で、陽の光を浴びて鮮やかに咲き誇っている。深緑の葉は力強く大地を這い、花は時おり吹いてくる爽やかな風にさらさらと揺れている。自然の力強さと優しさが共存する、どこまでも心地のよい空間。ここは一体どこなのだろう——。遠い場所のようでもあるし、ものすごく身近な場所のような気もする。〈咲かせに行くよ/内なる花を〉というフレーズにハッとする。なるほど、これはきっと、自分自身に内在する輝きのイメージだ——。ふいに我に返ったのは、アルトサックスのインタールードが始まったときであった。サックスを吹きながら闊歩するその姿はまさにジャズマンそのもの。金色の長髪に、サックスとオーバーサイズのスーツのコントラストは、まるで漫画の世界の住人である。インタールードは、絶妙にビートの海を蛇行していく。そのラスト、より強烈なロングトーンで締めくくられると「Workin' Hard」が始った。

 

この曲、どこかで……自分の深層にある懐かしさのようなものが襲ってくる。そうだ、これは「大漁唄い込み」のリズムだ。エンヤトット、エンヤトット——。日本の土着的に根付くいわゆる、労働のための音楽。藤井はそれを再構築し、現代、2025年の世界で演奏していく。その姿勢はどこまでも俯瞰し、淡々とした印象を受ける。まるでルーティン化した労働の日々を象徴しているかのようだ。だが、2番に突入した途端、そのすべてが打ち砕かれるほどに一転する。藤井の手から奏でられる音が突然、暴力性を帯び始めたのである。依然として冷静な歌声とは裏腹に、過剰なまでに鳴らされるトレモロ、フォルテッシモの圧。聴いているのがとにかく辛い。思わず耳を塞ぎたくなるくらいだ。これは、果たして音響のせいだけなのだろうか、いや違う。自分自身の内面で鉛のように沈んでいる負の感情と共鳴しているせいだ。 たとえば朝、しいんとした満員電車の中で密集する心の声がすべて顕になったかような息苦しい混沌——。一見すると何気なく見える日常の中で、実は激しく渦巻いている怒り、悲しみ、絶望感——。藤井はピアノと歌でその二面性を表現したのだ。これらすべてが〈Workin' Hard〉なのである、と——。

 

突然、ギターの目まぐるしいストロークがかき鳴らされ、金属的な高音域が会場内に充満していく。やがてそこにバンドサウンドが加わり、曲の全容が顕になってゆく。「damn」。藤井はキーボードから離れ、四角形のステージいっぱいを使ってポーズを決めながら歌い上げていく。圧倒的な存在感と、日本を代表するポップスターの矜持を感じる。そして「Love Like This」へ。先人たちの名曲のエッセンスが凝縮された楽曲は、海上で波が幾重にも反射するような煌めきを想起させる。英語で紡がれてはいるものの、日本語的な、おおらかな音の置き方のためか、これまでの楽曲からシームレスに繋がっている。
「This opening show is too long I know...... Two more songs (このオープニングショウ長いよね、わかってる。あと2曲だけやります)」
と言いながら、キーボードのインタールードが始まる。モーツァルトの「トルコ行進曲」のフレーズはやがてトリルへと収束していく。打鍵は徐々に力強くなっていき、キーボードの振動は肉眼でもはっきりと見えるほどになった。それが最高潮に達すると、グリッサンドで無造作に締めくくられる。たちまち様々な色のペンキを一斉に壁に叩きつけた後の、限りなく黒に近い色が脳内に広がる。

 

「死ぬのがいいわ」。この曲は、藤井風というアーティストを一躍グローバルに引き上げた楽曲だ。そのスポットライトの妙か『ラ・ラ・ランド』のエピローグ、バーで演奏するジャズ・ピアニストのシーンを彷彿させる。静謐でありながら情熱的な職人気質なピアノ。藤井のキーボードは即興性を持ちながら、けれどもその一定の規律を消して逸脱することはない。リリースからまだ数年しか経過していないが、既に貫禄と成熟を感じる演奏だった。ニューアルバムの先行曲「Hachiko」で、オープニングアクトは終演する。わずか8曲、40分とは思えないほどの濃密な時間だった。藤井は四方向それぞれの観客に深々とお辞儀をし、
「Enjoy the Billiy's show! (ビリーのライブ、楽しんでって!)」
と言って颯爽と帰っていった。圧巻のパフォーマンスに歓声は鳴り止まない。極上のプレマで満たされていく会場。あれ、これって本当にオープニングアクトなんだっけ——。あるいは——これは存在しなかった世界線のSUMMER SONIC 2025なのかもしれない。ライブはまだまだ続く。だが、これで終わってもいいと思ってしまうほどのすばらしいステージだった。

 

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セットリスト
1. まつり
2. 何なんw
3. 花
4. Workin' Hard
5. damn
6. Love Like This
7. 死ぬのがいいわ
8. Hachiko