「あ、今日は見えてる」
トンネルを抜け、橋に差し掛かると、運転席側の車窓には秋田市街を一望できる景色が広がっていた。ほとんどが背の低い住宅地であって、秋田駅前の栄えているところだけ一極的にビルが立ち並んでいる。銀色に反射している円形の建物は市立体育館だろうか。海沿いには、真っ白な風力発電機が等間隔に立っている。そんな市内の景色を囲い込むようにして、雄大な山が見えていたのである。鳥海山、別名出羽富士。秋田県と山形県の県境に位置するこの山は一番高いところで2236メートルの活火山である。東北で2番目に高い山だ。秋田市内から山までは車で2時間くらいの距離であるが、天候によってはっきりと見える日があるのだ。空の色に限りなく近いが、その姿を確かに誇示している。山頂には雪が網脂のように広がっていた。
「おお、心の山だな」
父はこの道で鳥海山が見えるたびにこう言っていた。"心の山"というのは中々いい響きである。その人の中に常に寄り添う存在としての山ということか――。事実、父は毎年のようにこの山に登っており、父の 装備品 には決まってその形を模した「〽」マークの下に名前の頭文字の「ツ」があしらわれたサインが書かれていた。
そして、そのあとは決まってこうである。
「今度帰ってきたとき、一緒に登るが(か)」
そう言って山の姿を背に、我々の乗る自動車 は市街地の方へと向かっていくのであった――。この手の話は「それが達成できないまま……」などという風な書きっぷりになりがちである。だが、それは無事に達成された。とはいえ、このようなやり取りはかれこれ10年くらいあったような気がする。自分にとって、鳥海山というものが、あまりにも現実から遠い存在であり、こんな山に登るだなんて想像ができなかったのである。それが変わるきっかけになったのは、今年5月に登った秋田駒ヶ岳の登山である。そこで父から登り方について手取り足取り教えてもらい、登山のいろはの"い"と"ろ"くらいは会得できたような感触があった。
「この感じで登れれば、次は鳥海山だな。秋(あぎ)が登るってば一番(いぢばん)いい時期(じぎ)だ。熊はいるけどな、はっはっは――」
無論、最後の方は笑い事ではないが、ちょうど9月に秋田に帰れることになったため、ついに鳥海山に登ることになったのだった。
9月9日月曜日、朝5時に起床する。予報の通りこの日は清々しい快晴であった。近くのコンビニエンスストアで朝食と昼食を調達する。鶏五目のおこわと梅干しのおにぎり、それから菓子パン。朝食をとりながら、秋田県南部へと向う。トンネルを抜けた先にある橋に差し掛かると、見事な鳥海山が見えていた。山頂に雲はかかっていなかった。あと数時間後にはここを登っている――。海沿いの道を走っていると、空と同じ色だった鳥海山は、徐々に深い緑色を帯び始める。鳥海山に続く"鳥海ブルーライン"に差し掛かったところで、車内では矢沢永吉の「止まらないHa〜Ha」が流れた。ロックンロールに感謝しようぜ――車内のボルテージが最高潮に達したところで、8時前、鳥海山五合目の駐車場に到着。雲は若干あるものの、山頂にはまったく無い。あらためてその圧倒的な高さに驚く。まずは鉾立(ほこだて)口から登り始める。コンクリートで覆われた階段の道がしばらく続く。展望台を過ぎたあたりから今度はゴツゴツとした岩が階段状に積まれた道に代わる。右手には真っ青な日本海が広がっていて、駐車場やその近くの建物はもう小さくなっている。
1時間30分ほど歩いたところで、御浜小屋という山小屋に到着する。近くの岩場で座れるところを見つけ、いったん小休憩を挟むことにする。地上の方では30度を越す気温であったが、山には心地の良い風が吹いてきていた。ペースとしては順調すぎるぐらいの運びであった。一面緑色をした山々の合間に、ポツンと湖がそびえているのを見つける。鳥海湖といって、火山活動によって陥没した箇所に水が溜まってできたいわゆるカルデラ湖である。空の色がそのまま反射され、周辺の山々とのコントラストがより際立っている。しばらく休憩したのち、そこからさらに石畳の道を進む。
石段を構成する石の一つ一つは序盤のものよりも小さく、精巧に作られていた。それが、ずっと先の方まで、波打つようにしながらずっと続いている。まさしく万里の長城、あるいはアンデス山脈に設けられたマチュ・ピチュへと続く道(おそらく実在はしないがあくまでもイメージである)といった感じである。我々は、地上の町から遥々やってきた行商人で、僻地に住む人々に物資を届けるという使命をもって云々……。そのようなことを考えたりしたりしなかったりしながら、圧巻の景色を進んでいく。標高は既に1700メートルを超えているためか、背の高い木々はなく、緑の絨毯だけが広がっている。アップダウンを繰り返しながら、石畳の道とひたすら対峙する。できる限り、石が安定している場所を選択しながら一歩ずつ、着実に足を運んでいく。
「よし、いいペースだ。あまり急ぐなや」
という父の声が後ろから聞こえる。振り返ってみると、父は普通の階段を降りる要領でスイスイと降りてきている。無駄な動きが一切ない。そのまま先に行ってもらうと、あっという間に坂の一番下のところに行ってしまった。
石畳の坂を上りきると、平坦な景色が広がる七五三掛(しめかけ)という場所に差し掛かる。ここでまた休憩をとることにする。持ってきていた経口補水液がみるみるうちに減っていく。座っている岩の合間から、イワギキョウが咲いているのを見つけた。青紫色の筒状の花びらは、その真ん中あたりで5つに分かれ、星形に開いている。一休みしたのち、いよいよここから本格的な岩場の道が続く"外輪山"ルートへと進む。文殊岳、伏拝岳、行者岳をそれぞれ登りながら七高山を目指す。奈良時代、仏教がこの地に伝わって以来、山岳信仰と神仏が習合され、やがて薬師如来が神の姿となり現れる本地垂迹説へと発展したが、これらはそんな当時の歴史の面影を残す名前だ。岩場には大小さまざまな大きさの岩が積み重なっていて、時には手を使って登る場面もあった。すかさず持ってきていた手袋をはめる。こうしないとザラザラとした岩場で手が擦り剝けてしまうのだ。一つの岩に足をかける間に、次の岩をみて足を置くルートを考えていく。迷いは禁物、ただし、この選択をひとたび間違えると、必要以上に足を上げたり、あらぬ方向に足を置くことになってしまう。例によって筆者はこの選択を、20回に1回ぐらいの割合で、着々と間違えていく。これが後になって悲劇につながるなど、この時はまだ思いもしていなかった。(続く)