三浦日記

音楽ライターの日記のようなもの

昆虫と民藝Ⅱ: 虫藝(昆虫が創りし工藝)

前回以下の記事で、民藝とイラガの繭の共通項について考えた。

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柳宗悦は民藝とは、民衆が用いる工藝品を指し、日常生活と切り離せない必要不可欠なものであると定義した。また、その美しさというのは一切の無駄を排し「なくてならぬもの」のみ残ったところに宿ると柳は述べる。民藝の定義、かかる美しさは昆虫の場合も同様である。昆虫の創り出すものは当然ながら、必要だから作っている。きれいなものを作ってやろうとは微塵も思っていない。気が遠くなるくらいの長い年月をかけ、生存のために最適化された本能の中にあるものの表出に過ぎないのだ。そこに民藝的な美しさが宿るのである。筆者はこれを民藝ならぬ"虫藝"と命名することにした。この虫藝はイラガの繭以外にもいくつか存在している。ここでは、それをいくつか書いていきたいと思う。

 

1. イラガの繭(まゆ)

前回の記事でも書いたが改めてここでも書いていきたい。薄灰色をした楕円形の繭は、焼き締が施された陶器のようにザラついた質感である。これが幼虫の吐き出す糸と分泌液によって作られたとは思えないほどの精巧さである。その成分はカルシウムとタンパク質が主な原料になっており、高い強度を誇る。繭には、極細の筆で引かれたような墨色の線が何本か入る。それらが合わさって一本の太い線になることもあれば、三本線の「川」の字のようになったり、はたまた線が絡み合ったりすることもある。一つとして同じ形はないが、墨色の線というルールは消して逸脱することはない。繭職人ならぬ繭職虫が唯一見せる個性である。そんな繭を作ったイラガは蛹として成熟し、成虫になり外に飛び立とうという場面において穴をあける。それがまた斜めにも縦にもならない、まったくもって並行の美しい切り口なのである。イラガの繭の美しさはここに極まるのだ。

 

2. オオカマキリの卵鞘(らんしょう)

冬の風物詩と言えば、イラガの繭とこのカマキリの卵鞘である。ススキや葦の茎を注意深く観察していると、クリーム色をしたピンポン玉くらいの大きさのものが括り付けられている。これがカマキリの卵鞘である。カマキリは卵を括り付ける際、泡状のものを腹の先で混ぜながら卵を起用に産み並べていく。はじめは真っ白なメレンゲのような質感だったものが、一夜明けるとカチッとした卵鞘になる。触ってみるとウレタンフォームとほぼ同等の質感である。事実、この中には空気が含まれており、高い断熱性能を誇る。カマキリはその年の雪の量を当てる、などと言われる。雪が多いと高い位置に作り、少ないと低い位置に作るといった具合だ。だがその説には疑問がある。まだ雪の残る3月、草むらのある道を歩いていると、雪の中に埋もれた卵鞘を見つけたことがあった。雪解け水は浸透することなくすべて弾かれ、光を浴び、春の訪れをじっくりと待っていた。ある意味科学的な"機能美"がそこにはあった。

 

3. ホウネンタワラチビアメバチの繭(まゆ)

白神山地を散策しているときに、葉っぱの先から何かがぶら下がっているのを見つけた。1センチにも満たない小さな繭であった。それをじっくりと観察してみると、繭の模様は6つのセクションに分かれていることに気づく。一番上は藍色で塗りつぶされた模様。次に白色で塗りつぶされた模様。3番目の層は象形文字をさらに抽象化したような模様が入れられ、その下には落ち着いた藍と白の混じった淡い点が入る。5番目の層は藍色の点描がなされ、最下層は再び白色の塗りつぶし。上半分と下半分でそれぞれ藍色と白色の見事なコントラストになっている。形は"タワラ"と名前に入っている通り、きれいな俵型である。俵と言えばかつて米を運搬する際に使われていたものである。ちなみにこのハチは稲の害虫を食べて方策をもたらすことから"ホウネン"と名付けられたそうである。なんと粋なのだろう。この繭については、人間の生活と結びついているという意味での美しさを感じる。

 

4. キイロスズメバチの巣

かつて父が、家の近くの生垣にスズメバチの巣を見つけたことがあった。何を思ったか父は"超強力 マグナム"などと書かれた殺虫スプレーを両手に持ち「ちょっと行ってくる」と軽々しく言い放ち外に出ていった。それが辞世の句でないことを祈りながら待っていると、袋の中に巨大な巣を入れ意気揚々と帰ってきた。円形の巣は様々な種類の樹皮から作られた文様が描かれており、縄文土器を彷彿とさせる。炎を抽象化したかのような生命力を感じる形だ。その荒々しさからは一転、内部を割ってみると六角形が組み合わさってた巣盤が整然と並んでおり、極限まで最小化された支柱でそれぞれがしっかりと五重塔のように支えられている。その内部には、伸縮する丸々と太った幼虫と、力尽きた成虫がびっしり入っていた。外側は二重になっているが、これは気温や湿度を一定に保つ効果があるのだとか。水をかけてみると、ゴアテックス並みに撥水した。機能美と生命力の結晶である。

 

5. オトシブミの揺籠(ゆりかご)

森の中でいわゆる"ドングリ"のなる木の下を見ていると、巻物のようなものが落ちていることがある。これがオトシブミの揺籠だ。"落とし文(オトシブミ)"。先人たちはこの揺籠を"書簡"に見立てていたというところに一抹のロマンを感じる。とにかく名前がいい。オトシブミは甲虫類であるが、スッポンのように長い頭を持つ。これを器用に動かして葉に傷をつけ、6本の脚で折り畳み、柿の葉寿司さながらの楕円形に巻いていく。糊のようなものは一切使わずとも、巻き戻ることのない完璧なものを作り上げる。最終的にはそこに穴を開け卵を産み付け、地上に落とす。人の手やってみると途中まではうまくいくのだが、巻きあげるところで上手くいかない。まさに、職人技だ。卵から孵ると、幼虫はこの一枚の葉で作り上げられた揺籠を食べ成長する。なんと奥ゆかしいのだろう。草木を食い漁るわけでもなければ、他の虫を食べるわけでもない。職人はどこまでも謙虚であった。

 

6. チャミノガの蓑(みの)

冬、家に立てかけられている箒や、室外機の隅っこに枝と葉でできた塊がくっついていることがある。これがいわゆるミノムシと呼ばれる昆虫である。中には芋虫は入っていて、その口から吐き出される糸を使って丁寧に"蓑"をこしらえていく。様々な種類がいる中でもチャミノガのものは見事だ。木の枝がまっすぐ整然と並んでいるその様は、南京玉簾(すだれ)を丸めたような形のように見えてくる。もぬけの殻になったものを拝借してみると、決して重なることなく、必要最低限の枝を体の大きさに合わせて身に着けていることが分かる。枝をすべて取り掃うと、繭のような糸でできたインナー部分が露になってくる。これは引きちぎれないくらいに頑丈な作り。とある研究*1によると、この糸はクモの糸よりも強い強度を誇るのだとか。とはいえ近頃(特に西日本において)は、蓑職人同様、その数が減っているそうである。こちらは需要の減少などではもちろんなく、寄生バエの影響のようだ。

 

ここまで昆虫の作り上げた虫藝について書いてきた。鞘、蓑、揺籠――これらはどれも、かつての日用品である。先人は昆虫の作り上げたものに対しても、そのように名付けた。ただ、そこには人間が生み出したものに追従しているニュアンスはない。まず最初に自然があって、そこから必要なものが出来上がっていく。それは人間であろうと昆虫であろうと変わらない。同志の視点がそこには存在している。でなければそのような名づけもされなかったはずである。民藝が必要不可欠でなくなった昨今において、自然は限りなく切り離されたものになった。そんな中でも人は自然に触れ、切り離されたものを何とかして近づけようとする。アウトドア用品店に行って、キャンプグッズを取りそろえる。それから登山靴とウェアを買う。

 

ただ、これは本当の意味での自然ではない。必ずどこかで、自然との境界が引かれる瞬間がある。ここで述べたいのは、直接的に触れるという意味合いの自然ではない。あくまでも眼差しの再認識である。生きていくうえで必要なものはすべて自然から生まれている、そして自然の中で自分が生きている――。このように実感できるものは今、部屋の辺りを見回してみてもすぐには見つけられない。そのようなものを自ずから生み出すこともない。そんなとき、外に出て、家の周りを少しばかり散策してみる。無論、張り切って遠出する必要などない。ミクロの世界にじっと目を凝らしてみる。すると、昆虫たちが生きるために必要なものをせっせと作り上げているのを見つける。身近に民藝なるものを感じられる作り手は今や昆虫である。民藝から虫藝、そして自然の認識――。