ある冬の日。葉のすっかり落ちた満天星(ドウダン)の枝元に、小指の第一関節にも満たない大きさのものが、ちょこんと乗っかっているのを見つけた。イラガの繭だった。イラガと言えば、幼虫時代は黄緑色の鮮やかな色をしていて、体色と同じ色のスギの葉のようなトゲが伸びている。そして体の真ん中にはこれまた鮮やかなマリンブルーの線が引かれている。種類によっては痣で内出血した時のような赤黒い模様が乱暴に入っていたりする。そんなわけで一目見ただけで、ああ、こいつには毒があるな、触ったら大変なことになるとんでもないやつだ、という気分にさせられる。例によって昆虫が心底苦手という人のために写真は載せない。自分で調べてその鮮やかさを確認されたい。
ところが繭になると違う。薄灰色をした楕円形の繭は"焼き締"が施された陶器のようにざらついた質感であり、極細の筆で引かれたような墨色の線が幾本か入っている。この線は個体によってバリエーションは異なるものの、黒と線、というルールからは決して逸脱することは決してない。華美な格好をしてブイブイいわせていた不良が受験勉強のために途端に更生して地味な格好になったかのようなギャップである。そんな楕円形の繭の先はスパッと直線で切り取られており、中はすっからかんである。これは作り主が外の世界に出るために開けた穴である。繭をじっくりと見ていると、なんだか本当の器のように思えてくる。そして、直感する。この佇まいは、まさに民藝であると。ちなみに昔の人は良く考えたもので、これを雀の小便担桶(すずめのしょうべんたご)と呼んだのだとか。
柳宗悦は『民藝とは何か』の中で民藝についてこのように述べる。
民藝とは民衆が日々用いる工藝品との義です。それ故、実用的工藝品の中で、最も深く人間の生活に交る品物の領域です。俗語でかかるものを「下手」な品と呼ぶことがあります。ここに「下」とは「並」の意。「手」は「質」とか「類」とかの謂。それ故民藝とは民器であって、普通の品物、すなわち日常の生活と切り離せないものを指すのです。それ故、不断使いにするもの、誰でも日々用いるもの、毎日の衣食住に直接必要な品々。そういうものを民藝品と呼ぶのです。
著者の柳について簡単に説明すると、日本の民藝運動の創始者であり、20世紀の評論家である。近代化と西洋化が進行する日本において、伝統的な工藝品とその美的価値を再評価した。そんな柳が上記において主張する、民藝というものが民衆が用いる工藝品であり、その生活に深くかかわってくる品物であるとすれば、これは「民」を「虫」に置き換えたときにもそのまま当てはまらないだろうか。つまり、虫が、かかる生命活動を営む上で必須な用途を持った品物。この共通項は民藝と呼応しないだろうか。
それだけではない。イラガの繭の形をじっくりと眺めたとき、筆者はとても美しいと思った。無論、イラガは誰かに見せるつもりも、はたまた綺麗に作ってやろうという"あざとさ"のようなものも微塵も持ち合わせていない。途方に暮れるほどの長い歳月をかけ、その種、あるいは土地に最適化された形にすぎないのだ。かかる美しさもやはり、民藝に起因する。柳は民藝の美しさについてこのように述べている。
なぜ民藝品が美しいか、それは用品中の用品だからと云えないでしょうか。人々はそれ等のものを用いずしては、日々を暮すことができないのです。……私達は民藝品において全き用の姿を見るのです。かくして用に交ることにおいて、ますます美にも交ってくるのです。民藝品は自から美しい民藝品たる運命をうけているのです。用は美を育くむ大きな力なのです。……用とは奉仕なのです。仕える者は着飾ってはいられません。単純な装いこそ相応しいのです。……奉仕する日々の器でありますから、自然丈夫でなければなりません。繊弱では何の用にも立たないからです。民藝品が何故健康の美を示すか。それは働き手であるからと云えないでしょうか。一番病いに遠いということ、これが美を保証する力なのです。用はものを健全にさせる力でもあるのです。……錯雑を去り華美を棄て、すべての無駄をはぶいて、なくてならぬもののみ残ったもの、それが民藝品の形であり色であり模様なのです。「なくてならぬもの」、これこそ美の基礎であると云えないでしょうか。
ものは使われることによって、美しさが宿る。ただ、そこにはかかる用途に耐えうるだけの強度が必要である。柳はこれを"健康美"と定義し、この"健康"は無駄を一切合切取り払って残った結果であるという。
かかる美しさについては、かの岡本太郎も『沖縄文化論: 忘れられた日本』において、その文脈は異なれど、おおむね近似性を持った主張をしている。
阿檀(あだん)葉のむしろ、薯を煮る大鍋にかぶせる鍋ぶた、船の形……それらの自然に洗練された形は、完璧なフォルムである。……これらすべては美しい。意識された美、美のための美では勿論ない。生活の必要からのギリギリのライン。つまりそれ以上でもなければそれ以下でもない必然の中で繰りかえされ、浮び出たものである。特定な作者、だれが創った、はない。島全体が、歴史が結晶して、形づくったものだ。……身をまもる最低の手段として、美しさ、みえなど考えてもいないのに、結晶は偶然に美しいのだ。いや偶然ではない。生活の必然から、あたかも自然そのもののように出来上がってしまったからなのである。……籠だって、それがなかったら、食糧を運ぶこともできないし、生産したものを交換することもできない。……それなしでは生きられない、のっぴきならない必要によって、生存のアカシとしてそこにある。そういうものだ。
美のための美ではない、生活の必然から出来上がってしまったもの。岡本は民藝という言葉を使ってはいないが、ここで登場する用品はまさしく民藝であり、柳の主張と交錯する。これをイラガの繭に当てはめてみれば、あの完全なる楕円形は、強度を増すために最適化された形状であるといえるだろう。四角形でもいけないし、凹凸がランダムに入っていてもいけない。幼虫時代にこしらえていたトゲなんてもっての外である。バランスが少しでも崩れれば当然ながら羽化するまで生き延びることはできないだろう。そして、そこに木の枝にカモフラージュするかの如く、黒い線が何本か入れられている。日本応用動物昆虫学会誌にあった文献*1によると、黒白の模様はそれぞれ含有された成分の割合が異なっており、幾層にもわたって作られた繭はなんと、横からは平均約7.7kg、そして縦からは平均約6.4kgの圧力に耐えられるのだとか。これを踏まえると先にカモフラージュと書いたが、その効果は副産物的な意味合いになるのかもしれない。ただ、冬の色の失われた景色においては、この色彩は見事に馴染んでいるから、やはり直感として正しいのではないかと思っている。これらのイラガの繭を形づくる要素というのは、必然の上で生まれた要素に他ならない。そこに民藝と同様の美しさが宿ると言えるのではないだろうか。昆虫と民藝は次回に続く。