仕事にも精が出る、木曜の午後――。だって今日は宇多田ヒカルのライブに行くのだから。この日のために、ここ1ヶ月くらい宇多田ヒカルの曲は一切聴かなかった。その方がより曲を実感できると思ったからだ。喉が潤っている状態で飲む水よりも、カラカラの状態の時に呑んだ時の方がより全身に染み渡る――曲も同じで、これを"断水"ならぬ"断曲"と勝手に呼んでいる。張り切って会場のさいたまスーパーアリーナには、開演時間の1時間半前に到着した。今日は平日、会場内の人はまだそこまでいない。場内はBGMが流れていないせいか、周りの人たちの会話が目立って聞こえてくる。不思議なもので、気にするまいと思えば思うほど、気になってしまう。
後ろの席にいた男三人組。小太りニューエラキャップに髭メガネスーツとクロムハーツの瘦せっぽち。年齢は30代前半ぐらい、互いの話しぶりから見て同級生のようにも見えた。そんな彼らが、あの人の格好はどうだの、あの人はかわいい、かわいくないだの、地獄のような話を続けているのがとにかく気になってしまう。人のことを言わないと自分たちの話の間が持たない人あるある。そしてそれを面白いと思って話しているのがまたキツい。気になるあの娘の前で声が大きくなって見栄を張る、青春の空回りみたいなことをいい年した大人がやっている。ファンはアーティストの鏡などというが、例外もあるのか。あるいは鏡の中にチラホラと現れる黒い斑点のようなものかもしれない。
ライブ前はアーティストと対峙する前の準備期間だ。テスト開始直前に精神統一をするように。無論、ライブはもっと気楽に、友達と一緒に来ているときはなおさらではあるが、さすがに限度がある。席を立つのもなんとなく負けな気がしたので、苦痛に耐えることを選択する。徐々に人が増えてきた。開演時間5分前、後ろの席の彼らも話のタネが尽きたのか黙り始めた。やがて会場が静寂に包まれていく。アナウンスを聞いていると、スマートフォンでの撮影は禁止されていないようであった。撮った動画を見返すタイプの自分にとってはありがたい。日本のアーティストは、ライブ中の撮影に関して厳格すぎる印象がある。もっと自由にライブが観られるようになればいいと思っている。
開演時間が10分ほどが過ぎた頃、突然、場内が暗転すると、SF映画に登場する宇宙船の制御ルームのような音が鳴り響き、ビジュアライザーの波線と深夜のテレビのような砂嵐がスクリーンに映し出される。やがてノイズは増幅していきピークに達したところで、静謐なピアノの音に切り替わる。緊張が徐々に張りつめていく。最後の1音のタイミングでステージ中央にスポットライトが照らされる。その瞬間、3万人の発する「ワーッ」っという声にならない吐息のような音が広がった。「キャー!」という黄色い歓声でも、「フォー!」という興奮と驚嘆の入り混じった叫び声でもない音がほんの一瞬響き渡ったのだ。あの宇多田ヒカルが、スポットライトの先にいる。二十数年間の人生と共にあった音楽を創り出した人が、いる――。自分だけではない。この日来ているそれぞれの人生に彼女の音楽が確かにあった。あの瞬間の、声にならない音の集積には間違いなく、限りなくフィクション的な存在が、現実空間に突然現れたときの畏怖とも困惑ともとれる絶妙な感情が内在していた。
ピアノの音は宇多田ヒカルのフェイクの声と交じり合い、やがて場内はパッと明るくなる。今度は堰を切ったかのように、歓声が上がった。一曲目はデビューアルバム『First Love』から「time will tell」。彼女の口から言葉が紡ぎだされた瞬間、再び歓声の波が大きくなる。上下真っ白のセットアップはゆったりとしたサイズ感で、ステージを行き来する度にひらひらと蝶のように舞う。この日のさいたまスーパーアリーナは、一番集客のできるいわゆる"スタジアムモード"であった。音響というのは基本的に会場の規模が大きくなればなるほど、音のコントロールが難しくなってしまうものであるが、宇多田ヒカルのライブはそんなことはなかった。ダイナミックな低音に埋もれることなく、その歌声はクリアに聴こえてきた。序盤は彼女のキャリア初期の楽曲が続く。中でも「In My Room」は意外な選曲だった。
意外、などと言いつつ正直に打ち明けると筆者は初期の宇多田ヒカルには疎かった。そこにはリアルタイム性が要因のキーワードとして存在している。そしてそれは、案外楽曲に実感をもたらすかどうかの大きなファクトになるようにも思える。彼女のディスコグラフィーは大きく3つの時代に分けられる。1つ目は『First Love』から3枚目の『DEEP RIVER』まで。そして2つ目は『Exodus』(Utada名義)から『HEART STATION』、活動休止前の『This Is The One』(Utada名義)まで。そして3つ目は復帰後の『Fantôme』から現在といった具合。20代の筆者がリアルタイムでしっかりと体感してきたのは2つ目の時期からだった。とはいえいい意味で、その当時がパッケージングされたかのようなアレンジは、タイムスリップしたような感覚にさせられる。「For You」から「DISTANCE (m-flo remix)」に続くメドレーは、ブラウン管の演出と相まって、その極地であるように思えた。
この日の宇多田ヒカルの歌声は想像以上に不安定であった。ピッチが所々ずれている箇所があり、それはキーが高いところで顕著であった。何とも辛そうに顔をしかめながら、振り絞るように歌い上げる姿が時おりスクリーンに映し出される。その度に「あれ、なんか違う……」という何とも言えない空気が会場全体に漂っていく。ただ、そこまで気にならなかったのは、その"声"に、有無を言わさぬ迫力があったからだろう。相手を威圧ものではない、時代そのものを創り上げてきた声が持つ迫力。ある一定の領域に達したものだけが許される特権的なもの。昨年観た松任谷由実のライブで、かつての荒井由実時代の曲を歌ったとき、非常に感動した記憶が蘇ってくる。ユーミンはキーを下げ、掠れ掠れで何とか歌い上げる感じだったのだが、その"声"がとにかく凄まじかったのである。上手く歌える歌手というのは存在するが、人の心を揺り動かす歌手というのは少ない。宇多田ヒカルもどちらかといえば、そちらのタイプにカテゴライズされるような気がした。
この日のセットリストは基本的に楽曲のリリース順に沿ったものになっていた。"オールタイムベスト的なセットリスト"という文言がしばしば散見されるが、そういう場合でも普通はライブの流れを鑑みて、リリースの順は無視される傾向にあるため、非常に珍しい試みだといえる。先に書いた宇多田ヒカルの3つの時代の内の2つ目のフェーズが「Beautiful World」を皮切りに披露される。この時代の曲はもっともSF(サイエンス・フィクション)要素が強いように思える。それは『エヴァンゲリオン』や日清カップヌードルの『FREEDOM』のタイアップになったからという短絡的なものではない。もっと楽曲に内在する部分にそれを感じるのだ。特にその歌詞には、日常的な言葉が使われているのに、別の世界軸、あるいは別の惑星で生活が営まれているような感覚がもたらされる。それだけではなく、旋律、歌声もそうだ。それらが香水を調合するかの如く複合的にSFの香りを醸成していく。(続く)
セットリスト
01. time will tell
02. Letters
03. Wait & See ~リスク~
04. In My Room
05. 光 (Re-Recording)
06. For You ~ DISTANCE (m-flo remix) *メドレー
07. traveling (Re-Recording)
08. First Love
09. Beautiful World
10. COLORS
11. ぼくはくま
12. Keep Tryin'
13. Kiss & Cry
14. 誰かの願いが叶うころ
15. BADモード
16. あなた
17. 花束を君に
18. 何色でもない花
19. One Last Kiss
20. 君に夢中
アンコール
21. Electricity
22. Automatic