仕事にも精が出る、木曜の午後――。「treveling」では冒頭、そのようにアレンジされて歌われ、会場はこの日一番の盛り上がりを見せる。〈タクシーもすぐつかまる〉と〈不景気で困ります〉のところではコールアンドレスポンスが起こる。今年、23年の時を超えて再録されたバージョンは、より華やかな色彩を放ち、まさに"祝祭"のようだった。ライブはあれよあれよという間に進んでいく。すぐそこに宇多田ヒカルがいるというのに、相変わらずまったく実感が湧いてこない。あまりにも驚異的なものを目の当たりにしたときというのは、頭の中の情報処理能力が制限されていくような気がする。そんな中でも、この日はライブならではのアレンジに唸ってしまう場面がいくつもあった。「Keep Tryin'」はラストの〈少年はいつまでも いつまでも片思い/ 情熱に情熱にお値段付けられない〉のパートがスタジオ音源とは全く違うサンバビートをシンプルにしたようなアプローチになっていた。これまで通り一辺倒な手拍子をしていた観客は、この時ばかりはどうすればいいのか若干の困惑の様子である。
それから「誰かの願いが叶うころ」では、終盤のサビの部分からバンドサウンドに切り替わり、より楽曲の持つ重厚感が強調される。とはいえ苦しさや悲痛さのようなものはなく、むしろささやかなお祝いのような印象さえ感じられた。宇多田ヒカルはMCで
「今回のツアーは25周年なんだけど、私の25周年を祝ったり祝ってもらったりするんじゃなくて、私の音楽をひとりの時とか、いろんな状況で聴いてくれた、みんなの25年間も一緒にお祝いしたいなと思うの」
と言っていたが、アレンジにもそうした要素が随所で感じられるのだった。
休憩をはさんだライブ後半、真っ白な衣装から南米の鮮やかな花を身に纏ったような衣装に着替えて披露されたのは「BADモード」。ここからは、活動休止から復帰した2016年、『Fantôme』以降の作品が続く。途中、宇多田ヒカルが立っている場所が茎のようにぐんぐん伸びていき、まさに"花"のように会場に咲き誇るような演出がなされた。新型コロナウイルス真っ只中で生み出されたこの曲は、家の中で聴くと非常にシームレスであり、疲弊した生活の癒しのような存在だった。随所にちりばめられる"ネトフリ"や"ウーバーイーツ"という単語は、それを助長する。ところがひとたびライブにおいては、ダンスミュージックへと変貌を遂げる。最後の〈エンドロールの最後の最後まで/ 見たがる君の横顔が/ 正直言うと/ 僕の一番楽しみなとこ/ 楽しみなとこ〉は、その最たるもので、まさにパンデミックからの"解放"を象徴しているかのようであった。
続いて披露されたのは「花束に君を」。この曲を聴くと、卒業式の朝、家族に見送られるシーンが必ず思い浮かぶ。温かくて、嬉しくて、けれどもちょっぴり寂しい瞬間だ。この曲は、亡き母に捧げた曲というのはあまりにも擦られた話であるが、その話を知ったうえで聴いても、当初思い浮かんできたイメージが変わることはなかった。"死"という一辺倒な解釈ではなく、もっと普遍的な"別れ"や"旅立ち"のニュアンスをこの曲からは感じる。宇多田ヒカルもまたこの日は、"みんなへの感謝を込めた曲"と言ってこの曲を歌っていた。言葉と旋律は、例によって卒業式の日の朝のシーンを鮮明に浮かび上がらせる。いつの間にか涙が止まらなくなっていた。けれどもそれは悲しい涙ではない。自分の中の過去が心地よく耕されたことで横溢してきた涙だ。そして聴いた後はきまって、耕された場所はきれいに均され、心に安寧がもたらされるのであった。
ライブ本編は最新曲「Electricity」で終了。グレーのシンプルなノースリーブを身に纏って登場したアンコールでは「Automatic」が披露される。イントロでは、MVに登場するものと同じ黄色のソファに座る粋な演出もあった。ここまで書いてきたが、ライブは終始、現実と空想の区別がつかなかった。宇多田ヒカルの存在自体があまりにも"サイエンス・フィクション的"であったのである。そこに確かに実在して歌っているのに、その存在は"フェイク"なのではないかという不思議な感覚が自分の中に渦巻いていた。ライブが終わり、帰り際にコンサートスタッフから綾鷹のペットボトルを貰う。そういえば、綾鷹のCMに出演していたんだっけ。外に出るとパラパラと雨が降ってきていた。さいたま新都心駅に向かって歩き出した瞬間、ようやく現実に戻される。
LINEの通知を見てみると姉から、贈り物が届いたという連絡が来ていたので、この日のライブ映像を送った。姉もまた、宇多田ヒカルが好きであった。あるいは自分以上に当時、リアルタイムでそのリリースに一喜一憂していた世代であったかもしれない。当時、『DEEP RIVER』の曲が隣合わせの姉の部屋から聴こえてきていた。それが宇多田ヒカルの初めての出会いだったかもしれない。あの頃はそんなこと思いもしなかったが、振り返ってみると、平成もレトロだのノスタルジーだのY2Kだの言われ出したりしている。振り返ってみて初めて生まれてくる意味もあるのかもしれない――。電車の中で先ほど撮った映像を観返してあの感動を反芻する。宇多田ヒカルは、太宰治だとか手塚治虫と同じ部類に入ると思っている。その道の時代や歴史を創り上げた人、あるいは教科書に載る、なんていうと陳腐であるが、そういった歴史上の"偉人"に近い。太宰治や手塚治虫はもうこの世にいない。けれども宇多田ヒカルがいる――。そうした存在をこの目で見ることができて本当に良かったと思っている。これからの25年の糧に。
セットリスト
01. time will tell
02. Letters
03. Wait & See ~リスク~
04. In My Room
05. 光 (Re-Recording)
06. For You ~ DISTANCE (m-flo remix) *メドレー
07. traveling (Re-Recording)
08. First Love
09. Beautiful World
10. COLORS
11. ぼくはくま
12. Keep Tryin'
13. Kiss & Cry
14. 誰かの願いが叶うころ
15. BADモード
16. あなた
17. 花束を君に
18. 何色でもない花
19. One Last Kiss
20. 君に夢中
アンコール
21. Electricity
22. Automatic