2024年6月某日。この日は秋田駒ヶ岳(以下、駒ヶ岳)に登ることになっていた。駒ヶ岳は、秋田県仙北市と岩手県岩手郡雫石町に跨がってそびえる活火山。標高は一番高いところで1637メートルある。県内最高峰の山だ。簡単な朝食をとってから、6時50分頃出発する。途中のコンビニエンスストアでおにぎりとお茶等を購入する。車内では荒井由実の初期のアルバムが流れていた。その中の「晩夏」という曲が流れると、この曲は『夏の故郷』というドラマの主題歌になっていたと、思い出したように父がつぶやく。"シティ"のイメージのあるユーミンが田舎を舞台にした作品の主題歌を描くのは少し意外だった。1980年代前半、父が若い頃のユーミンは陽のイメージで逆に陰のイメージは中島みゆきだった。大学時代に住んでいた学生寮で彼女と別れた人がいると、みんなで集まって部屋を暗くしロウソクを焚いて中島みゆきの曲を流したのだという。
学生寮での話は続く。寮はコンクリート造りで、2段ベッドの4人部屋だった。当時は何かにつけて"酒盛り"をしていたというが、テスト期間中だけはさすがにしっかり勉強した。学費の値上げ反対デモもやった。中にはデモにのめりこんで大学を辞めてしまった人までいたそうだ。大学時代の仲間との関係は今でも続いていて、その内の一人は秋田県内に何店舗か構えている蕎麦屋のオーナーをやっているのだとか。自分が小さい頃はよく行っていたらしいが、まったく覚えていない。そんな父の昔話を聞きながら協和スキー場の近くを越えてくると、いよいよ山の景色に変わってくる。車内は荒井由実の「14番目の月」が流れ始めた。道中でりんご入りのデニッシュを齧る。父曰く、登山というのは空腹でも満腹でもない状態を保ち続けることが大事なのだという。秋田の道路は本当に山を切り開いてできたような印象がある。
"アルパこまくさ"と書かれた案内表示が見えた。ここは田沢湖高原の中枢施設としての役割を果たし、自然ふれあい温泉館、秋田駒ヶ岳情報センター、そして駒ヶ岳火山防災ステーションの3つの施設の総称だ。今日はそこから発着しているシャトルバスで駒ヶ岳の8合目まで行く。施設の近くのコンビニエンスストアで休憩を取る。そこでお菓子とハムマヨパンを買う。店を出て、空を見上げてみると、雲一つない真っ青な空が広がっていた。今日は、絵にかいたような登山日和だ。駒ヶ岳も、もう目の前に見えている。車に戻ると、父も同じ"ハムマヨパン"を買っていた。アルパこまくさに到着すると、駐車場は満車だった。仕方なく、施設へ続く坂道の途中に車を停める。車のナンバープレートを順に眺めていくと、"秋田"以外の場所が多く記載されていた。6月。数多くの種類の高山植物の花が咲き乱れる駒ヶ岳を登るには、今が絶好のタイミングである。登山靴のヒモを締め、"登山スパッツ"なるものをその上から被せる。これは数日前父から、駒ヶ岳は砂利道が多いから登山スパッツを用意しておくように、というLINEが来ていたので買ったものだった。登山靴のわずかな隙間から入ってくる砂利やら枝やらを防いでくれる代物である。
施設の目の前にあるバス停には多くの人が並んでいた。出発の時刻までまだ時間があったので、施設内のベンチで休むことにする。施設内を見回してみると、樹脂で作られた高山植物の模型や説明のプレートが展示されている。駒ヶ岳で噴火があった場合、ここがそのまま防災センターになるようだ。チケットを購入し、9時27分発のバスに乗る。県内外からの登山客の列は長く、バスは2台体制となっていた。道中は曲道が多いからと、父から酔い止めをもらう。平べったい錠剤は舌の上であっさりと溶けた。後ろの席に座った男女の会話が聞こえてくる。会社の同僚だろうか。敬語で話し合っている距離感をみると、カップルのようには見えない。道を進んでいくと、ダケカンバの木が見えてくる。これは標高の高い所に生える木なのだと父が言う。カーブの標識をよく見てみると番号が振られている。進んでいくにつれ木の高さは徐々に低くなっていき、景色が開けてくる。60番目のカーブの標識を曲がったところで、標高1305メートル地点、登山口のある八合目小屋に到着する。外に出ると、アルパこまくさよりもさらに涼しい風が吹いてきた。駒ヶ岳は曇りの予報であったはずであるが、霧はまったく出ていない。10時。トイレを済ませてから、いよいよ登り始める。
駒ヶ岳の登山ルートは、八合目小屋を始点に環状になっている。男岳だけは、その円から一度外れる必要があるが、それ以外のルートは"一筆書き"で踏破することができる。まず我々は、"新道ルート"と呼ばれる登山道から片倉岳展望台を経由して阿弥陀池へと向かう。円周でいえば4分の1ぐらいの距離であるだろうか。父が先頭に立って登山客を次々と追い越していく。父は平地と全く変わらないスピードで、スイスイと登っていく。窪地になっている場所には、まだ雪が塊になって残っている場所があった。父が夏に登ったとき、ツキノワグマが雪の上に腹ばいになって休んでいるのを見たことがあるらしい。そういえば、登り口に"クマ出没注意"と書かれた看板があったことを思い出す。
「ここは残雪がありますから気を付けてくださいね。数年前に滑落事故があって……」
ガイドと思しき人を先頭にした一団を横目にどんどん進んでいく。辺りを見回すと青と緑の世界が広がっている。奥の方には田沢湖も見えている。八合目小屋はもう小さくなっている。片倉岳展望台を過ぎると、途端に景色が開けてきた。
草花保護のために設置された木道を歩いていると、所々に高山植物が咲いているのを見つけた。黄色、あるいは薄赤色の小さな花が、深い緑色の葉を背景に見事なコントラストを醸し出ている。父は花を指さして、その名前を教えてくれる。
「これはハクサンチドリ、それからこれはイワカガミ――。おお、ミヤマキンバイも咲いでらな――」
しばらく歩いていると、突如として阿弥陀池が見えてきた。四方八方が山の中にぽつんと佇んでいる池はまさにオアシスのようである。池から男岳に続く登山道のところで小休憩を取る。おにぎりを食べながら山の景色をぼんやり眺めていると、虹色の筆でなぞったような雲を見つけた。いわゆる"環水平アーク"というものである。あ、と言った声が他の登山客にも聞こえたのか、ドミノのように視線が伝播していく。自然の織り成す偶発的な美しさにしばし目を奪われた。昔から、こういう現象を見ると吉兆が訪れるとはよく聞いたものであるが、この雲が見えると天気は下り坂になってくるのだと、横にいた父はつぶやく。ふと、Eテレの教育番組のキャラクターに出てきそうなメルヘンチックな格好をした三人組が通った。その奇抜さにたちまち注目を集める。あれなら道に迷ってもすぐに見つけてもらうことができるだろうと思ったら、近くの登山客も同じようなことを言っていた。派手であることに越したことはない。小休憩の後は、男岳へと向かう。