三浦日記

音楽ライターの日記のようなもの

置き去りになった粋(いき)なるもの——宮本浩次『縦横無尽』レビュー

宮本は、独歩した。これまで築き上げてきたエレファントカシマシという屋号に一旦の別れを告げ、新たな行き先で自己を表現することになった。『宮本、独歩。』、齢50を過ぎてからの挑戦であったが、いたって足取りは軽く、着の身着のまま、本能が赴くままに歩みを進めていく。時に、以前の居場所を懐かしみながら、また時には新たな仲間と腕を組み、これまでにない場所に立つことが可能になった。

 

宮本は、歩き続けた。たとえ世界に暗雲が立ち込め、棘(いばら)の道に直面しても。ポジティブに道を切り分け、時に歩みを止め、じっくりと自分自身と向き合った。そうした末、宮本は『ROMANCE』においてカバーというものに新たな可能性を見出し、表現の幅をさらに広げていった。

 

宮本は、歩みを速めた。宮本は、『縦横無尽』で、どこまでも迷いなく突っ走っている。そう、迷うことなく、何かに衝突することもなく。すると、あることが起こったことに気が付く。あたりを見回すと、エレファントカシマシの証のようなものは既にどこにも見当たらない。また、後ろを振り返ってみると、置き去りにされてしまったいくつかのものが、遠い遠い彼方に塵(ちり)のように見えている——。

 

『縦横無尽』で置き去りにされてしまったもの、それは——粋(いき)なるものである。これは直感的な推測か、それでも構わない。これらはあくまでも人間が持つ直感に身を任せた時はじめて知覚をし、味わうことが出来るからである。例によって、筆者はそのように感じてしまった。以下に続く考察は、そんな置き去りにされたぼんやりとした直感(粋なるもの)を、はっきりとした理論(といえば大げさだが)として提示することを目指している。

 

粋なるものの消失は、宮本の歌声とサウンドのアプローチの変化が密接に関わってくる。哲学者九鬼周造は『「いき」の構造』の中で、芸術的表現における粋な色について、

華やかな体験に伴う消極的残像である。「いき」は過去を擁して未来に生きている。個人的または社会的体験に基づいた冷ややかな知見が可能性としての「いき」を支配している。温色の興奮を味わい尽した魂が補色残像として冷色のうちに沈静を汲むのである。また、「いき」は色気のうちに色盲の灰色を蔵している。色に染みつつ色に泥まないのが「いき」である。「いき」は色っぽい肯定のうちに黒ずんだ否定を匿している。

 

と述べている。ここでの引用箇所には、着目すべき点が2つある。一つ目は、消極的残像としての"いき"である。華やかな体験、つまりは温色の興奮を味わい尽くすことで、補色残像として、冷色の中に落ち着きを見ることができる。華やかな体験を契機に興奮を味わったことで汲まれる沈静。この二元性が表出されたとき、人々は"いき”というものを捉えることができると九鬼は主張している。そして二つ目は、色っぽい肯定の中に、黒ずんだ否定を孕むものとしての"いき"である。ここでも、肯定と否定の二元性の存在が明示されているが、どちらが一方だけになっても、"いき"の構造は成立することはない。

 

本作における宮本の声は、例えるならば単色のインクであり、ペンキで塗りたくられたように均一である。掠れなどは微塵もなく、色の中にグラデーションのようなものを感じることはできない。もっと言えば、温かみをほのかに残しながら、灰色や黒みを帯びた色が、裏で見え隠れをしていないのだ。2012年の突発性難聴による活動休止を経て、2013年を境に磨き抜かれてきたクリアーな歌声。歌声は年々透明度を増し、雑音が取り除かれたことで露になった正確無比なピッチは、本作でも遺憾なく発揮されている。ただ、それが本作においていわゆる"臨界点"に達した瞬間、図らずも余韻が欠け、一元的になっているような印象を抱いてしまった。余韻が、楽曲における補色残像を構成する要素になっているとするならば、その不在は同時に、"いき"を見失うことにもつながるといえるだろう。

 

発声の変化もまた、粋の消失につながっているように思える。というのも、今作では、日本語を崩したような歌唱が度々行われる。エレファントカシマシにおいても、このようなアプローチをすることはあったが、大きく異なるのはこちらの方はあくまで英語的な発声に寄せた結果生まれたものであったということだ。日本語の発音の持つ美しさや情緒は決して損なうことなく、英語的なグルーヴのみを補完する。この日本的なものと西洋的なもののシームレスな融合は、まさに明治期の西洋館の様な佇まいであり、これらの二元性の存在は同時に、エレファントカシマシの粋なるものを構成する要因の一つであったといえるだろう。だが、今作は日本語の発音そのものが崩れてしまっている。歌声とサウンドは溶け合うどころかむしろ乖離をし、どこか浮足立っていることは否めない。九鬼が、

「いき」とは東洋文化の、否、大和民族の特殊の存在様態の顕著な自己表明の一つである

と述べているが、発音における日本語の崩壊は、"大和民族の特殊の存在様態の顕著な自己表明"の可能性を、限りなく狭めてしまうものになりかねない。

 

上記の粋の消失を加速させるものとして、さらにもう一つ、歌詞について挙げたい。前作『宮本、独歩。』は、音と歌詞の"究極的な融合"が果たされた作品であった。単純明快なテーマの歌詞は、その歌声の凄みを最大限に引き出すものであり、言葉の一つ一つは音とビートに吸い付くように付随していた。「夜明けのうた」や「Do you remember?」はまさに、その到達点のような作品であったといえるが、今作では、融和を感じにくくなっている。その理由はなぜか。詞の内容は、本作においても相も変わらず単純明快のまま、むしろさらにその明快さに拍車がかかっているが、これこそがその原因になっているように思える。

 

程度を超えた明快さは粋ではなく、その対極にある陳腐であり野暮だ。宮本はキャリアを積み重ねるにつれ、使う言葉が普遍的なものへと変化をしてきた。ただ、いずれの時代においても、独自の視点で歌詞を紡ぎあげてきたという点は変わっていない。だが、本作では、肝心の視点の部分に新鮮味を感じることが出来ない。まるでパズルのように、キーワード的な言葉をただただ当てはめているだけのような感覚さえある。付け焼刃的であり、宮本の眺めている景色を楽曲を通して追想することはできない——。そのため、ここにも先に書いたサウンドに対する歌唱のアプローチ同様、サウンドに対する歌詞のアプローチが溶け合っていないといえるだろう。

 

誰にでも理解できる普遍的な言葉と、ありきたり(マンネリ)な言葉というのは似て非なるものだ。両者がたとえ同じような内容であっても、そこに発信する者の主張、あるいは視点の如何によって、いずれかの言葉に決定付けられる。本作の歌詞を粋ではなく、陳腐であり野暮——。そのように評したのは、本作に障壁や迷いがないことが関わっているように思える。つまり、自分(精神)対楽曲という構図がないということである。近年の作品でいえば、"自分対老い"である『RAINBOW』、"自分対自由"である『Wake Up』、そしてソロ一作目となる『宮本、独歩。』は"自分対バンドの自分"、続く『ROMANCE』は"自分対没個性"——。これらの対峙の末、乗り越えられた(場合によっては乗り越えられなかった)障壁や迷いの中で、横溢したものにこそ、粋が存在していたのではないか。『縦横無尽』を一聴した後の空虚感、無論それは粋の消失であり、図らずもエレファントカシマシ宮本浩次と、ソロアーティスト宮本浩次の違いを決定づけるものとなってしまったのであった。

 

——前方、道の先には何もない真っ新な世界が広がっている。宮本は、何処へゆくのか。あるいは彼の一人旅はこれで終着点なのかもしれない。ソロ三部作と銘打たれたからだろうか、それ以上に今現在の宮本の表現をもって、次なる活路を切り開くことが全くもって想像出来ない。宮本は、これまで歩んできた道に立ち戻り、置き去りにしてきた粋を今一度拾い上げる必要があるのではないか。この立ち返りこそが、現在の宮本にとっては逆説的に新たに道切り開く方法であるように思える。もしそうでなければ、今後の宮本は、空虚の中をただただ縦横無尽に走り続ける存在となってしまうように思えてならない。

 

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Track Listing
01. 光の世界
02. stranger
03. この道の先で
04. 浮世小路のblues
05. 十六夜(いざよい)の月
06. 春なのに(cover)
07. 東京協奏曲 / 宮本浩次 × 櫻井和寿 organized by ap bank
08. passion
09. sha・la・la・la
10. just do it
11. shining
12. rain -愛だけを信じて-
13. P.S. I love you