義務教育課程の、いわゆる小・中学校の人間関係というのは、それなりに仲良くすることができても、人生を共にするような友人というのは見つけにくいのではないだろうか。なぜならそれは、閉鎖的な地域の中で、偶発的に集められた人間によって形成された社会集団(共同体)に過ぎないからだ。そのため、その社会集団の枠組みから外れた瞬間、赤の他人のような振る舞いになってしまうような、微妙な距離感にもなりかねない(というか、今の資本主義的な世の中である以上、それで何の不都合もない)。
しかしながら、そうなってしまうことを防ぐために、もっといえば、卒業を経てもなお枠組みから外れない努力をするために、かつての先人たちは考えた。それは、"同窓会"というシステムである。過去を振り返り、懐かしかったあの頃に想いを馳せる——。しかしながら筆者はいずれ、このシステムがなくなってしまうのではないかと思っている。まずは、個人情報保護の観点からであるが、少なくとも今の20代くらいの人間は、同級生の職業や住所をよほどのことでない限り知ることはできない。かつては、そういった情報がリスト化され全員に共有されていた、などという話を聞いたことがあるが、今はそれが一切なくなっている。おそらくこういう情報を取りまとめているのは、学校側、同窓会事務局などという有志の人たちがやっているはずであるが、そうした情報を集めるのは難しい世の中になっていることは確かだ。
では、今の20代が当時の同級生のことを全くわからないのかと言われればそうではない。SNSが普及している昨今の世の中においては、その人の現在の立場や状況を、タイムラグなしに、知ることができる。年賀状という、年末になれば郵便局がやれ伝統、伝統と訳のわからないことを連呼しだす、あの忌まわしい"文化"が日本にはいまだに残っているが、それがジェットコースターが急降下するかの如く廃れているのも、この普及がかなり大きいように思える。たとえば、子どもが産まれましただとか、結婚しましただとか、何処そこに旅行に行ってきましたなんていうことは、新年の挨拶と共に、紙切れ一枚に書く必要もなく、SNSに投稿して知り合いのフォロワーに共有してしまえば、それで済んでしまう世の中に現状なっているのだ。
同窓会もまた、年賀状のようにかつての同級生との近況を確認し合い、さらには現在の自身の立場を声高に披露し、優越感に浸る場でもある。ただ年賀状よりも、そのスパンというのはおおむね長く、下手すると年賀状以上に即効性に欠けてしまう。それに拍車をかけるように、地方都市においては、地元を離れて就職している人も多く、その数は年々増すばかりである。それでは「わざわざ、同窓会のために地元に帰るもんか」と言って、腰を重くする人も増えてしまうだろうし、別に広々としたホールを揃えなくたって、今ならビデオ通話等で、地元に帰ることなく繋がることだってできてしまう。そうなってくるともう、同窓会という権威が失墜していくことは、目に見えてわかっている。"〇〇中学校第〇〇期、卒業生"、それ以上でもそれ以下でもない。そこに誇ることは何一つとしてない。あくまで、在籍したという事実だけである。
ただ、ここで話を終わらせてしまって良いのか。続く話は、"ネオ同窓会"の創出の提案である。それはSNSを通して、新たな関係性が生まれるという新たな同窓会の形である。ある人間を軸にして、間接的に繋がっていく。たとえば、田舎の小学校時代の同級生と、大学時代の友人が同じ空間を共有するといった具合だ。無論、そこであって話す内容というのは懐古的なものではない。というか、それをして仕舞えば、どこかのポイントで誰かが置いてきぼりを食らってしまうだろう。そうではなく、同じ趣味であるとか、好きなものを共有していくのだ。本来、匿名的な性質を持つインターネットにおいては、そのようなことは容易であり、これまで一度の顔を見たことない人間とだって、そういうことができる場でもあった。いわば、日常的な共同体からの離脱である。
しかしながら昨今、SNSの普及によって、それが当たり前の世の中になり、SNSと現実の共同体が全く同じになっている。次の日、学校でも会うことができるのに、わざわざSNSでやりとりをするのだ。この、"ネオ同窓会"というのは、こうした本来的なインターネットの性質と、今日的なそれとの中間である。現実的な共同体を少しだけ破壊して、インターネット上での共同体を作り上げていく。少しだけ破壊するというのが重要で、完全に見ず知らずの人間が集まって交流するということではない。少なくとも、この人間と実際に会った事がある、あるいは会った事がなくても、この人は自分の共通の友人である、という安心感がそこにはあるはずだ。そしてこの安心感は、議論や話を円滑に進める要素の一つにもなる。同窓会の安心感を持って、新たなジャンルや共通する部分を共有していく——。筆者はこれこそが、新しい同窓会のスタンダードになっていくのではないかと、願望混みで考えている。