三浦日記

音楽ライターの日記のようなもの

スズメと蚊

男には行く当てがなかった。そして、あまりにも退屈すぎる一日が早く過ぎ去ってしまえばいいと思っていた。男は仕方なく、川沿いの道を歩いていると、神社を見つけた。山道の両脇には杉の木が生えていて、石畳には木漏れ日がゆらゆらと揺れている。男は境内の隅の方にある、石造りの椅子に腰かけることにした。じっとしているだけなのに、汗がだらだらと流れ落ちてくるほど蒸し暑い。男の他には、誰一人としていなかった。

 

ふと、地面の方に目をやってみると、スズメがこちらのほうに近づいてきた。以前、同じように座っていた誰かから、エサをもらった経験があるのだろう。スズメは男に警戒する素振り一つせず、男にエサをねだるような動きをした。男は、餌となる食べ物はおろか、食べ物を買うお金さえ持っていなかった。男は餌の代わりに、目の前にあった小さな石ころを、スズメのほうに投げてやった。すると、餌と勘違いしたスズメは石ころのほうに向かってぴょんぴょんと跳ねていく。そして、それが餌でないことがわかると、スズメは再び男の方へとやってきた。

 

男は面白がって、今度はちょうどいい大きさの木の枝を投げた。スズメは先ほどと同じように、枝の方向にぴょんぴょんと跳ねていっては、餌でないことを確かめ、またもやこちらの方に近づいてきた。
「まったく、バカなやつだ」
男は再び枝を拾うと、スズメの方に投げた。するとどうしたことだろうか。先ほどまで紛い物の餌に無邪気に飛びついていたスズメは一転、不服そうに首をひねって、向こうの方へてくてくと去って行くのだった。

 

スズメに対する関心が薄れると同時に、腕に何か違和感を感じたので、そちらを見やってみると、一匹の蚊が止まっていた。蚊は黒と白の縞模様になっていて、腹はうっすら赤みを帯びながら膨れ上がっている。男はそれを、手のひらで勢いよく潰した。すると、腕には潰れた蚊と共に、血がべっとりと滲み出た。その瞬間男には思いがけず、とてつもない罪悪感が襲ってきた。たった1匹の虫を殺しただけなのに一体なぜ——。

 

血というものは、時に命の存在を生々しく実感させる。とはいえこの殺戮の一部始終を目撃したものは、周りには誰もいない。もし、いたとしても、「ああ、あの人はきっと蚊を殺したんだろうな」と、日常の一部の出来事として、一瞬にして忘れ去られてしまうだろう。男は、手水舎で、潰された黒い塊と血を丁寧に洗い流した。程なくして男は、境内を出た。