2038年、カジノ関連法案が成立すると、巨大なギャンブル施設はいたるところに建設された――。
それから20年が経ち、東京はどこもかしこも似たような商業ビルや高層マンションで町中が埋め尽くされていた。その中でも特に、上野周辺の再開発の前後の差は顕著だった。アメ横商店街にある、ガード下や細い路地に縫うようにしてぎっしりと並んでいた店は2040年頃から、老朽化を理由に立ち退きを強いられ、長屋形式の3階建ての建物に集約されていた。木造風に、これまたトタンを模した屋根があしらわれ、かつての面影はもうしわけ程度に残されるだけとなった。それもこれも利便性の追求、あるいは合理化による結果なのだろうか。
日本を訪れる観光客は年々減少する一方で、外国人労働者は増加していた。アメ横商店街も例外ではなく立ち退きを機に、外国人労働者がテナントに押し寄せ、もはや日本人のための商店街ではなく、外国人の憩いの場として機能していた。東京都は、そのすぐ隣にカジノ施設を併設した。当初は外国人や高所得者向けの道楽遊びだったカジノはやがて、規制緩和を機に、低所得者層の人間をターゲットにし始めた。カジノ施設には、香水の匂いの代わりに、古くなった油と薄汚れた獣のような体臭が交じり合った匂いが一日中充満していた。
管理は緩慢になり、かつては違法化され、廃止されたはずのパチンコ業もカジノ施設の露天商的な体裁で、いつの間にかコバンザメのように施設のすぐ隣に張り付いていた。カジノ法案成立から20年が経ち、いったんは再開発されたはずのアメ横商店街周辺は結局、1世紀前に勃発した第二次世界大戦が終わった後の店が乱立した風景へと逆戻りしていた。違法パチンコ屋は、トタン屋根がかぶさった小屋のようなものに、どこから引っ張ってきたかわからない発電用ケーブルがつながっただけの簡易的なものだった。当初はレトロで、趣があるなんて言われていた新アメ横商店街は、コンビニエンスストアの光に集まる虫のようにしてへばり付いていく違法施設のせいで面影はなくなり、増設に増設を重ねられた外見は、遠目から見れば、サビついたトタンと配線がぐちゃぐちゃになったただの塊だった。
50を過ぎているであろう男性2人が、酒を飲みながら違法パチンコ台に並んで打っている。一人は中肉中背、脂ぎった頭に、まばらな髪の毛がもうしわけなさそうに植わっている。肉体労働の代償のためか、手は黒くすすけ、爪の間や手の皺まで、小学生が描く下手なデッサンの手のようにくっきりと黒い線が浮き上がっていた。もう一人は、肩まで背が伸びたグレーの白髪に小さな顔にしわがやたらに目立っていた。どちらも身なりはみすぼらしく、何日も体を洗っていないようだった。
長髪の方が手にしている酒瓶を見てみると、ラベルがない。どうやら彼は医療用に使われるアルコールに香料を混ぜたものを飲んでいるようだった。病院から脱走したのだろうか。この類の酒は重度のアルコール依存の人間しか飲まない。というのも酒の販売には成年であっても、飲酒許可証明書の提示が必要で、過去にアルコール依存症になったり、飲酒運転をしたりしたものは、証明書をはく奪されるからだ。つまりラベルなしのこの酒は脱法のものということである。結局法律で整備しても、この国に住んでいる者は抜け道を探すのがうまい。それは人間であれ、法人であれ変わらない。2058年というのに、世の中の問題は何一つとして変わっていないのだ――。
私は、彼らの隣に座って、6円パチンコを打つことにした。すると、2人の話声が聞こえてきた。どうやら自分が適当に座った台が当たりやすい台らしい。一つ咳払いをした後、頭の禿げた方の男がそれを見て、あんちゃんの打ってる台は絶対に当たるといってきた。
「ここを見てみい」
と言って台のディスプレイに書いてある回転率を指さした。液晶画面はところどころヒビが入り、細かい傷のせいで曇りガラスのようになり読みづらくなっていた。パチンコが禁止されてからは、韓国製や中国製のパチンコの部品が輸入され、組み立て屋と呼ばれる職人のような人間が組み立て、日本語に対応したOSを埋め込んで、当時と変わらないものを作っていた。従業員は、制服などは着ておらず、一見しただけでは客と区別がつかない。こうした仕事は、パチンコ禁止以降の企業の膨大なリストラ社員の受け皿のようになっており、結局のところ、これまでのパチンコを運営していた企業が再び名前を変えて運営を行っているらしかった。
「この台は絶対当たるぞ」
隣にいる白髪の男も、身を乗り出して、
「当たるな、これは、しかも配当もデカい、6000円打って7万ってとこか……」
と物欲しげに言った後すぐ、そんなうまく行くわけないかと呟き自分の定位置に戻った。三国時代の武将が登場したと思えば、過剰な効果音と演出とともに、すぐさまリーチになった。代の横に据え付けられているスピーカーからは時々雑音が入った音楽が聞こえてくる。一体、いつの頃のゲームがモデルになっているのだろうか。少なくとも50年以上は前のゲームであることは確かだった。
その様子を側からじっと見ていた、禿げ頭の男が報酬を折半するから、席を変わってくれと言ってきた。3万円をくれてやる、しかも前払いだといって渡してくれた。クシャクシャになった紙幣の中には2万円札、千円札5枚、5千円札。あとは、中国の紙幣も混じっていた。それについて聞いてみると、
「まあいいじゃない。俺みたいな仕事をしている人間にとって見たら、どこのお金かわからないんだ」
彼はいったい何の仕事をしているのだろうか。
男は続ける。
「この金は、アメ横の雀荘で、片言の日本語を話すアジア人と賭けでもらったやつなんだけど、なにせ酔っぱらっちゃってたからさあ、よくわかんなかったんだよ。で、家に帰ったらさ、どこの国の金だよってなってね。あのときは、ぼったくられたね」
「へぇ、それは災難でしたね」
そう言って私は、男に席を譲った。
「まあ生きていればいろいろあるさ。そういえばそれ、シナの金だったのか。いつかは行ってみたいけ……」
最後の言葉を言い切らないうちに、パチンコ台の演出がさらに過剰になった。
「おっ、にいちゃん、やっぱり当たったぞ」
彼は高揚していた。私は、そっけない返事をして混沌としたパチンコ屋を後にした。
この先、一体どうなるんだろう。昔の人もおんなじことを言っていたんだろうか。先祖に怒られるかもしれないけど、今の日本取り巻く状況は本当に最低だ。最低賃金は、全国一律になった代わりに、50年前の半分以下になった。税率は年々上昇を続け、私は大学にも行けずにアルバイトをして過ごしている。今は定職に就く人の方が少ない。国家資格を除けば、公務員を含めてほとんどの職業が非正規雇用になった。大学を出ても正規雇用で就職できないとなった途端、就学率は一気に落ちたのだ。受験競争ってのはいったいなんだったんだろう。大学を出て、いい企業に勤めて、結婚して、家を建てる。そんな暮らしが私は心底うらやましかった。私は、不安を掻き消すように、早足でアパートへ向かった。