三浦日記

音楽ライターの日記のようなもの

地方出身者の東京、幻想ーサカナクション「聴きたかったダンスミュージック、リキッドルームに」より

心地のよいダンスビートはBPM120、AM1時の恵比寿リキッドルームで——。

 

この曲を一聴すると、東京というアイコンが持つ、整然としていて無機質なイメージが想起されてきた。ただしそれは、東京の表層部分、もっといえばライブハウスの中での話に過ぎない。一歩ライブハウスを出れば、喧騒の中の交差点、行き交う人の波が押し寄せてくる。テールランプを光らせるタクシーの渋滞、クラクションの音がこだましている。見上げれば、無数のビルが立ち並んでいて、人気女優が映った広告看板が、こちらの方に微笑みかけてくる。ビルの中腹に引っ付いたディスプレイ広告からはアイドルの新譜が流れ、度々けばけばしい色合いの宣伝カーが通っては、大音量のBGMがたちまち遮る。

 

東京は混沌としている。言い換えるなら、なんでもできる場所でもある。けれども資本を消費しなければそれが実現することは決してない。たとえ、肩と肩がぶつかるくらい人々が密集していても、丸腰で交流が生まれることはない。"

消費"という段階を踏まなければ、交流さえままならないのである。恵比寿リキッドルームもまた、消費によって獲得された都会の混沌から逃避できる場所であり、同時に人々が交流する可能性もそこで初めて担保される。その意味でライブハウスは、消費と逃避によって生み出された"東京の表層部分"であるとも言えるだろう。

 

この楽曲では、東京のより内的な部分(ライブハウスの外の世界)が徹底的に排除されている。東京の表層部分としての、ライブハウスという存在。あくまでもそこを描くことに注視されている。ここで、作詞・作曲の山口一郎はなぜ、そんなことをしたのかという疑問が浮かびあがってくる。歌詞の中の

僕は東京生まれのフリをして
踊りながら待っているのさ 

という部分は、その疑問を解決する一介になるように思える。"フリ"という言葉には、何かを取り繕おうとするニュアンスがある。つまり登場する人物はそれを自覚しながら、リキッドルームで君を待っているということなのだ。この部分は少なくとも、東京で生まれた人には持ちえない感情だろう。東京生まれの人は、そんなことを考えるまでもなく、手を挙げたり体を揺らしたりして、東京とリキッドルームを地続きに捉え、さらにはそれらと同じ距離感で音に寄り添っていればそれでいいのである。

 

その意味でいえばこれは、北海道という地方都市から上京してきた山口ならではの視点、もっといえば、地方出身者の中にある、"コンプレックス"と言い切っていいのかもしれない。東京に染まりたくても、染まりきれない自分——。混沌としたライブハウスの外の東京と、それに相反する整然とした表層部分の東京、ライブハウスの中。山口は、後者を描くことに徹した。さらに、その空間の中で"東京生まれのフリ"をして振る舞う人間を登場させた。この楽曲を聴くと、混じりっ気のない理想郷としての東京の姿が目に浮かんでくる。東京の現実は混沌としている。けれども、東京にいる地方出身者はそこで、整然とした幻想を見ることができる。この楽曲は、それが如実に表現されているのである。

 

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