三浦日記

音楽ライターの日記のようなもの

日常の呟き——エレカシ全作レビューⅫ『ライフ』

緊張と緩和は、エレファントカシマシのキャリアにおいて度々繰り返される一つのサイクルであるといえるだろう。2ndの『THE ELEPHANT KASHIMASHI Ⅱ』のあとに見せた、『浮世の夢』でのクラシック・ロックが内包されたポップ・サウンドアルバム。そして今回はというと、硬質な氷のように冷たいインダストリアル作『good morning』からの融解である。全編を通じてサウンドに均整がとれていて、聴きやすいメロディ。それは、Mr.Childrenでおなじみのプロデューサー小林武史を迎えたことが大きいだろう。

 

けれども、そこから誰かにメッセージを伝えるような素振りは感じられない。かといって世間と対峙し、部屋に引き込もったように自己に埋没しているかといったらそうでもない。彼らの12枚目のアルバム『ライフ』。いうなればこれは、"日常の呟き"である。

 

宮本が紡ぎだす詞において世間と自己の関係性は、重要なキーワードの一つであるように思えるが、本作は、世間という集合の中に自己が"部分集合的"にいるような印象を受ける。つまり、世間に身を置き、その中において自己の立ち位置を探しているということである。そしてそれは、日常の出来事が脚色されることなく、ありのままに表現されていくことにもつながる。「部屋」の描写〈僕の部屋へ来るなら地下鉄のホームを出て 目印はあのレストラン コンビニ24時間下にある 古いアパートの5階さ〉は、まさにそれを象徴しているといえる。冒頭の駅から自宅への行き方を案内をするかのような、細かな描写、これは日常の一幕をそのまま切り取っているかのようで、リアリティさを聴き手に想像させると同時に、日常の呟きのような印象を与える。

 

また、本作の詞にたびたび散見される"勝利"という言葉。「暑中見舞い-憂鬱な午後-」では〈晴れた日の午後町の光 通りゆく人や車の音 今日は俺は部屋の中ひとり 転がったまま考えてたのさ 勝利のことやあなたのことを〉とあるが、果たしてこれは、誰に対する"勝利"であるのだろうか。自分自身であるのか、あるいは社会(世間)であるのか。いずれにしても、そこから死にもの狂いな勢いや、強い表明めいたものは感じられない。部屋の中で一人寝転んで、考えるという文脈からみても、日常の中で独り言のようにポッと出てしまったような軽さを感じる。「女神になって」にも〈きらめいてる町の空魂宿し 単純なる生活の中ゆえ勝利を〉とあるが、ここでも同様に、何に対する勝利であるのかははっきりとわからない。あるいは、それが日常における呟きに過ぎないのだとすれば、理解する必要はないのかもしれない。

 

本作は聴き手に対する明確なメッセージを伝えることはせず、ひたすら日常の出来事がひたすらに呟かれるばかり。まさに"ライフ"なのである。

 

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