三浦日記

音楽ライターの日記のようなもの

島国ニッポン発のグランジ——エレカシ全作レビューⅣ『生活』

これほどまでに聴いていて辛いアルバムは、世界的に見ても中々ないのではないだろうか。再生ボタンを押した瞬間、歪み切ったギターの音とボーカルの叫ぶ声が、ひたすら強調された凄まじい音の塊になって襲い掛かってくる。リード・ギターの音はほとんとどいっていいくらい聴こえてこない。代わりに到底上手いとは言うことのできないギターがただただ乱暴に入り込んでくる。そして、前作まででその骨格を形作っていたドラム・ビートやベースのグルーヴ感は、そうしたノイズのような音ですっかり掻き消されてしまっている。

 

これを聴いた時、真っ先に思い浮かんだのはNirvanaの3作目『In Utero』(1993)だった。一発録りのような荒っぽいテイクで、潰れたディストーション・サウンドはまさに、エレカシの『生活』(1990)のようである。ただ、特筆すべきはそのリリース年からもわかるように、グランジ・ムーブメント以前に既に彼らは"グランジ"のような音楽をやっていたということだ。ただ、それはある意味、必然であったのかもしれない。メタルやハード・ロックから派生したとされるグランジ。宮本浩次とカート・コバーンは一歳差。彼らの同時代には、Led ZeppelinやAerosmithがいて、同じ眼差しでそうした音楽を咀嚼していたと考えられるのである。『東京の空』(1994)がリリースされた頃宮本は、NirvanaやPearl Jamを聴いていたというが、彼らの音楽に宮本が一定の接近を見せていたことからも、あながち間違いではないのかもしれない。

 

その歌詞に関しても、グランジの作法を踏襲しているといえる。『In Utero』でカート・コバーンは自身のドラッグ中毒による葛藤や、性暴力を歌い、破滅的な美学を完成させた。他方宮本は、「凡人-散歩き-」において余命いくばくの老人となった自己を"凡人"であると滑稽に描写しつつ死生観を、あるいは「月の夜」では、世間と自己との乖離がもたらすダウナーな感情を、ノイズのような音に負けじと歌い、破滅型の私小説のようなものを作り上げた。島国日本において、独自の"グランジ"像なるものを映し出した『生活』。この作品をひとたび聴けば、体と心が乖離したギャップによる美しさを体験しているような感覚になる。それはまるで、飲みすぎた朝帰り、二日酔いでふらふらの状態で鮮やかな朝焼けを眺めているかのようであった。その先駆性と衝撃から、後世に語り継がれるような作品であることは間違いないだろう。

 

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