三浦日記

音楽ライターの日記のようなもの

文学に共感するとき——東北にゆかりのある作家たちに自分を重ねて

筆者は、秋田に生まれ育った。日本海側特有の夏の暑さにも、厳しい冬の寒さにも何とか負ケズ、今日まで何とか生きてきた。今現在はというと、埼玉と東京の県境のところに住んでいる。こちらの方に住んで、もうすぐ4年。つい先日、住民票を移したから、いよいよ本格的な埼玉県民となってしまった(これで、秋田県の人口減少に一役買ってしまったということになる……)。電車の乗り換えにも慣れ、訛りもすっかりなくなってしまった。けれども、故郷で過ごした18年間というのはやはり、忘れがたいものがある。今でもコメといったら、秋田県産の"あきたこまち"を買ってしまうし、高校野球が始まれば、秋田の高校を応援してしまう。とくに高校野球、昨年はすごかった。金足農業高校が、県勢103年振りとなる準優勝を果たしたのである。快進撃が続いているときは、一人で勝手に盛り上がっては、秋田県というものを、埼玉の誰よりも誇らしく思っていた、おそらく……。そんなわけで、都会に染まってしまってはいるのだけれど、それは所詮、水で洗い流せば簡単に落ちてしまうということなのである。

 

その性は、たとえば文学作品に関してもやはり、故郷だったり東北にゆかりのある人物の作品を読んでしまうところにも表れている。しかもこれは、意図的にやっているわけではなくて、好きな作家が結果として東北の出身だったということが多い。伊坂幸太郎は、出身こそ千葉であるが、大学が東北大学の法学部だったためか、宮城県、あるいは仙台を舞台にした作品がある。『ゴールデン・スランバー』なんかは、まさに青葉区が舞台で、仙台市役所なんかかが登場する作品だ。筆者は浪人で、一年間だけ仙台の青葉区に住んでいたことがあって、仙台はある意味でアナザースカイ的な場所でもあるために、作品の内容以上に、情景の空気感にものすごく共感できたのだった。予備校が仙台市役所に近いところにあったから、大通りのパレードの場面なんていうのもフィクションのはずなのに生々しく映った。

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南木圭士は長野の出身であるが、大学時代は秋田大学の医学部出身。そのためかやはり、その頃の体験に基づいているであろう作品が結構ある。また南木は、医師の傍ら小説家としても活動をしているという、かなり異色の経歴の持ち主でもある。そんな彼の作品の中でも、単行本『ダイヤモンドダスト』に収録されている「冬への順応」という作品が特に気に入っている。難民収容所の医療従事者として働いていたころの苦悩と、地方の小さな診療所で働く現在、そして浪人時代に知り合った友人との別れが、見事にクロスオーバーしながら描かれているこの作品。やはり全体の土台となっているのは、田舎や、地方のどんよりとした感じだ。南木自身も都会性、あるいは東京というものは、かかとを浮かせて、疲弊してしまう、逆に田舎というものは、かかとを地面に卸して生活できると述べているが、まさしくそれが反映されている作品のように思える。

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宮沢賢治は岩手の童話作家、あるいは詩人として名高い。彼の作品は幻想的で、独自の宇宙論みたいなものを展開しているものが多くあるが、その根底には岩手の広大な自然が大きくかかわっている。『銀河鉄道の夜』の特に、「よだかの星」で描かれる風景の描写がなんとも美しい。

山焼けの日は、だんだん水のように流れて広がり、雲も赤く燃えているようです。

羊歯(しだ)の葉は、よあけの霧を吸って、青くつめたくゆれました。よだかは高くきしきしきしと鳴きました。

つめたいものがにわかに顔に落ちました。よだかは眼をひらきました。一本の若いすすきの葉から露がしたたったのでした。もうすっかり夜になって、空は青ぐろく、一面の星がまたたいていました。よだかはそらへ飛びあがりました。今夜も山やけの火はまっかです。(「よだかの星」より)

植物のかすかな表情の動きや、山の情景。宮沢はそれを、手に触れられるくらいの近接性をもって表現をする。こうした表現というのはやはり、その土地に住んでいる者で、実際に五感で体感することでしかなせない表現なのではないだろうか。岩手の自然に寄り添い、そこに埋没をすることで、独自の考え方を生み出してきた宮沢賢治。そのせいか、岩手という土地に思いをはせたとき、この作品はフィクションなのではあるが、時として妙なリアリティーをもって訴えかけてくるのだった。

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東北出身の作家として、もっとも有名といっていいのは太宰治であろう。太宰は青森県の金木町に生まれ、その生家は現在、斜陽館として一般に公開されている。彼は高校卒業後、東京帝国大学(現東京大学)に進み、以後東京を拠点に活動するようになるが、なんというか田舎者もつ、東京に対するまなざしを持っているという点において共感ができるのである。それに、太宰は帰郷の際の描写がなんともいい。今でこそ移動は便利にはなったが、東北への発着駅は上野であるし、数十年たっても変わらないところはあるのだ。

十七時三十分上野発の急行列車に乗つたのだが、夜のふけると共に、ひどく寒くなつて来た。私は、そのジヤンパーみたいなものの下に、薄いシヤツを二枚着てゐるだけなのである。ズボンの下には、パンツだけだ。冬の外套を着て、膝掛けなどを用意して来てゐる人さへ、寒い、今夜はまたどうしたのかへんに寒い、と騒いでゐる。私にも、この寒さは意外であつた。東京ではその頃すでに、セルの単衣を着て歩いてゐる気早やな人もあつたのである。私は、東北の寒さを失念してゐた。私は手足を出来るだけ小さくちぢめて、それこそ全く亀縮の形で、ここだ、心頭滅却の修行はここだ、と自分に言ひ聞かせてみたけれども、暁に及んでいよいよ寒く、心頭滅却の修行もいまはあきらめて、ああ早く青森に着いて、どこかの宿で炉辺に大あぐらをかき、熱燗のお酒を飲みたい、と頗る現実的な事を一心に念ずる下品な有様となつた。青森には、朝の八時に着いた。

東京と北東北の寒さというのは全く違っていて、北東北の方は耐えられないくらいに、寒いのである。けれども帰郷の時の服装というのは、ついつい東京の方に合わせてしまうもので、駅に降り立った時にとんでもなく後悔してしまう、というのが毎度のことなのだ。そして、駅から実家へ帰るまでの道は、太宰と同様早く熱燗の酒を飲みたいなあという風な、思考回路に陥ってしまう。これだから、秋田の人間というのは酒の消費量が多いのだろうが、その話は一先ず置いておく。この『津軽』をきっかけに、これまでの薬に溺れ、乱れきった太宰のイメージが払しょくされ、一気に親近感すら覚えたのだった。

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生まれ故郷や、自分が住んでいた場所のアイデンティティというのは、日本という大きな集合から、都道府県というよりミクロな視点からみれば大きく異なっているようにに思える。そんなわけで、未だに関西弁は相いれない文化のように思えてしまうし、お年寄りが、標準語(あるいは東京弁とでもいおうか)で話をしていると、違和感を覚えてしまうのだ。都会から離れていても、どこかで故郷のことを思ってしまうのが人間の常なのだろうか。そして、そうした感情と一番リンクしているのが、筆者にとっては文学作品なのである。不思議なことにこれは、音楽においてはあまり感じられない。それは歌詞や、楽曲というより抽象度の高いものに表現されてしまうからなのだろうか。とすれば、純粋に言語で紡がれたものというのは、意外にも一番の心のよりどころになりうるのかもしれない。