ドイツとトルコは隣国ではないし、さらには宗教的にも異なっているため、これまで両国の関係性というのは希薄なものであると思っていた。しかしながら、"移民"というカテゴリーにおいてはその関係性というのは非常に深いことがわかる。『おじいちゃんの里帰り』では、1960年代に出稼ぎのために多くのトルコ人が言葉もわからないまま異国ドイツへ渡ったことが描かれる。本映画のキーマンであり、一家の大黒柱であるフセイン(Hüseyin)もその1人で、ドイツで労働をし、家族を引き連れそのままドイツで生活している。
映画では、1960年代の移民による労働以来、ドイツに暮らしているトルコ系ドイツ人の家族3世代が、トルコへと"里帰り"をする。家族の会話では、トルコ語とドイツ語が飛び交う(この映画はドイツ人向けに作ったためなのか、トルコのシーンでもドイツ語が使われていて若干のややこしさを感じた)。
移民の第1世代はトルコ語を使用し、ドイツ語の会話はあまり得意ではない。第2世代は第1世代との会話ではトルコ語を使用するが、第3世代に対してはドイツ語を使用している。そのため第3世代に至っては、トルコ語は理解する程度で使うことはほぼない。第3世代であるフセインの孫のジェンク(Cenk Yılmaz)がトルコ語を話したのは、トルコで出会った現地の少年との別れ際のシーンで"Güle güle(さようなら)"と言ったときだけだった。しかも、フセインはそのやりとりに非常に喜んでいたことからも、第3世代がトルコ語を使う機会はよっぽど少ないということがうかがえる。世代間によって使用言語が異なるというのは当然ながら、方言と標準語が混在するような日本の家族とはわけが違う。単一民族の日本人にとってみれば実に不自然極まりない。
また、この映画では「はたして自分はどちらの国の人間なのか」というアイデンティティー的な悩みも描かれる。ジェンクは、トルコ人の父とドイツ人の母との間に産まれた。学校でサッカーをするシーンでは、"偽トルコ人"と言われ、馬鹿にされる。こうしたアイデンティティーの問題は日本に置き換えてみると、"在日朝鮮人"の縮図と似ている(歴史的文脈が全く異なってはいるが)。
こうした差別は両国家間の国交の悪化や、誤解を招きかねない。そこで、そうした事態を阻止すべく、真っ先に思い浮かばれるのは「歴史的背景や文化的背景は違っていてもそれぞれを理解し、お互いに受け入れていこう」という綺麗ごとのような文言である。だが、そういった文言というのは口で言うのは簡単であるが、いざ行動や実行に移すとなると難しいというのが世の常である。そんなわけで、こうした映画の存在というのは、時として民族間や国家間の状況を"より身近"に、そして"示唆的に"世間に訴えかけることができる重要なものになりうるように思えてならない。