大学に入学するにあたり、埼玉の郊外で一人暮らしを始めた。自分の住む場所は高度経済成長期の真っ只中に造られた、"マンモス団地"と呼ばれる住宅団地の一角にある。夕暮れ時、大学からの帰り道。住宅街の真ん中にオアシスのようにぽつんとある公園では子供たちのはしゃぐ声が聞こえてくる。辺りを見渡せば、無数にそびえたつ集合住宅は鮮やかな橙色に染まり、住宅街の間から見える関東平野の地平線には、夕陽の影になった建物が無機質に並んでいる。そんな風景を眺めながらエレカシの楽曲を聴いていると、曲とその街並みの風景とが絶妙に絡み合うような感覚を覚えることがあった。
それはなぜだったのか。おそらく彼らの音楽の"土着性"にその答えがあるのではないだろうか。"土着"というのは「その土地に長く住みついていること」(広辞苑)である。エレカシの楽曲の大半を手掛ける宮本は北区の赤羽台出身。そこにもまた"マンモス団地"と呼ばれる赤羽台団地がある。以前北区に行ったときに、団地特有の"圧迫感"や"閉鎖感"の隙間でどこか人間臭い生活が根付いているような感じが自分の住む場所に重なったのだった―。
エレカシのアルバム『町を見下ろす丘』に収録されている「シグナル」にはそんな都心からちょっと外れた場所にある団地の匂いがしてくるような雰囲気がある。
〈夜はふけわたり 家までの帰り道
町を見下ろす丘の上立ちどまり
はるか、かなた、月青く
俺を照らす 街灯の下
ベンチに座り、自分の影見つめてた。〉
高度経済成長の頃、郊外に次々作られていった"ニュータウン"と呼ばれる住宅街の中には、丘を切り開いて作られたようなものもあった。そういった住宅街は地形の特性上、坂が多く、高台付近では街を見渡すことができた。曲に登場する〈俺〉も歌詞を見る限り、こうした高台にそびえ立つ団地に住んでいることが想起させられる。男が立ち止まる〈町を見下ろす丘〉というのは、ジブリ映画『耳をすませば』のラストシーンの風景と重なる。主人公の月島雫は朝早く、天沢聖司に連れられ小高い丘へと向かう。聖司が「秘密の場所」と称した丘は、朝焼けに照らされている街を一望することができた。そんな最高のロケーションで聖司は雫にプロポーズをする―。この映画のモデルとなった舞台もやはり昭和30~40年代の好景気に都市整備が進んだ場所である。「シグナル」に登場する男も、『耳をすませば』のラストシーンのような場所で、青い月に照らされながら、1人ベンチに座り自分の影を見つめていたのだろうか―。
"レゲエ"がダンスホールの音楽でかかっていたり、"サンバ"が中国の宮廷音楽になったりすることは到底想像できない。何というか、不自然で気持ちが悪い。それはやはり、その土地それぞれに"ふさわしい"音楽があるからではないだろうか。そして、その"ふさわしさ"を形成するのは、その土地の風土的な要因が強くかかわっているような気がする。でもそれは意識して作り出そうとするのはなかなかの至難の業だ。もし仮に作り出せたとしても、それなりに様にはなっても、溶け合うような境地までに至ることはないだろう。
エレカシの楽曲の漠然とした団地感のようなものはやはり、意図的に作り出しているのではなく、彼らの経験の中から無意識的に滲み出ているのではないだろうか。それは、彼らを形作った風土が紛れもなく日本の"下町チックな部分"であるからだ。帰り道、団地のような無機質ながらも暖かみのあるような風景に、エレカシの楽曲が溶け合うように調和したのはある意味で必然だったのかもしれない。そしてこれこそが、音楽に存在する"土着性"であり、ふと、彼らの楽曲と自分が住んでいる街に親和性を見出したのはその存在があったからだったように思える。
https://www.youtube.com/watch?v=Vjv6uqDzlAk